継母に嫌われ、居場所の無かった紅髪の貴族の少女。
 人に迫害され、森に隠れ住む狼の耳の少年。
 惹かれ合った二人はとても臆病で、自分の想いを伝えられず――やがて訪れる悲劇は、たやすく二人を引き裂きます。
 ……けれどそれは、出会ったそのときから分かっていた、避けられない別れなのでした。

 ミルドレッドは、それは綺麗な真紅の髪と萌葱色の瞳を持つ、とても美しい十六歳の少女でした。その髪色ゆえか、一部の人間には《赤ずきん》とも呼ばれ親しまれていたのですが、そう呼ばれるたびに彼女は「赤ずきんは被り物が赤いのでしょう。私は髪そのものが赤いのであって、ずきんなど被っていないわ」と顔を顰めるのでした。
 ある街を治める伯爵家の令嬢として生を受けた彼女は、しかしそれほど権力が強いわけではありませんでした。
 ミルドレッドの実の母はその命と引き換えに彼女を産み落とし、悲嘆に暮れる伯爵――彼女の父を慰めた一人の侍女はいつの間にか伯爵夫人となって、伯爵との間に一人の子供を儲けました。その子供の性別は男であったため、伯爵は彼を跡継ぎと定め、安心した伯爵夫人はやがて、伯爵の目の届かぬところでミルドレッドを邪険に扱うようになったのです。
 優しい心の持ち主であった実の父――伯爵は彼女の味方でしたが、同時に夫人の味方でもある父に告げ口して父を傷つけることなど、伯爵に似て優しい心を持ったミルドレッドには出来ません。腹違いの弟は母の言いつけを守り、ミルドレッドに優しくすることはありませんでしたが、母のようにミルドレッドを邪険に扱うことも無いのが唯一の救いでした。
 伯爵家の屋敷に居場所の無いミルドレッドは、必然的に街へと出かけている時間が多くなりました。屋敷の使用人達はミルドレッドを好いてくれているので、お弁当を作ってもらったり、たまには共に外に出てきて貰うのです。美しく心優しいミルドレッドは民に好かれましたが、それが余計に、横暴だと民に嫌われている伯爵夫人の怒りを買うのでした。

 それは、普段のように街を一通り歩き終えた、冬のある日の夕方のことでした。
 屋敷に帰ろうとしたミルドレッドは、ふと街の向こう側に広がる森に目を向けました。
「そういえば……あの森もこの街と同じ、お父様の物だわ」
 ならば行ってはいけない道理は無いだろう、とミルドレッドは足を踏み出しました。今の時間帯、養母は庭に出ているはず。顔を合わせる回数は少ないほうが、互いに心穏やかでいられるでしょう――
 森の中は薄暗いかしら、と彼女は心配していましたが、木々には夕日が当たり、綺麗な橙色に輝いて、足元には花が咲き乱れていました。昼間に来たら楽しいだろう、と考えて、ミルドレッドはとある物語を思い出します。
「赤ずきんは確か、お祖母さんの家に行く途中でお花を摘むのだったわね」
 その愛称ゆえか、小さい頃からよく聞かされた《赤ずきん》の物語。だけどミルドレッドが向かっているのはお祖母さんの家ではなく、赤ずきんを唆す狼もここにはいません。
 飛び交う鳥に一人歓声を上げ、色とりどりの花に見惚れ、時折顔を出す小動物達に目を細めて。
 気付くと、辺りはすっかり暗くなっていました。
「大変……」
 流石に帰らなければと、ミルドレッドは踵を返します。
 と、脇の茂みからガサガサと音がして、彼女の前を何かが横切りました。
「っ!?」
 次いで、ミルドレッドの前に一人の少年が飛び出してきます。恐らくミルドレッドと同じくらいの年であろうその少年は彼女を一瞥し、低い声で唸りました。
「どけ」
「え……?」
「喰われたくなければどけ、っつってんだよ!」
 少年の剣幕に、ミルドレッドは思わず体を竦めます。その隙に少年は彼女の横をすり抜け、数歩走ったところで立ち止まって悪態をつきました。
「くそっ、逃がしたか」
 振り返り、憎憎しげに自分を見つめる少年に怯えるでもなく、ミルドレッドは目を丸くします。
「貴方、それは……?」
 何故なら少年の頭には、獣のような耳があったのですから。
 ミルドレッドの脳裏に、先ほどの考え事が再び浮かびます。この森に足りなかったもの、それは……
「……狼?」
 彼女の呟きが聞こえたのか、少年は肩を震わせ、つられて耳もピクリと動きます。
「だったら何だって――っ」
 叫ぼうとしてふらつく少年。ミルドレッドは慌てて彼に駆け寄り、支えました。
「大丈夫? 誰か人を……」
「うる、さい……お前が、邪魔しなければっ」
 少年は呻き、ミルドレッドを押さえつけて、彼女の顎に両の手を添え、その手をゆっくりと首へ降ろします。
「俺は、別に構わないんだ……お前を、喰ったって」
 少し長めの黒髪に灰色の目の彼は、よく見ればかなり整った顔立ちをしていました。そんな少年に首を絞められかけ、そんな言葉を投げかけられても、ミルドレッドは平然としていました。
「お腹が空いているの?」
「空いてるさ、三日くらい何も食べていない」
 それを聞いてミルドレッドは驚き、思わず訊き返しました。
「何故……?」
「こんな化け物を雇う人間も、食べ物を売ってくれる人間もいない」
 少年は自分の耳に触れ、自嘲気味に呟きました。直後、彼ははっと目を見開き、僅かに警戒の滲む表情でミルドレッドを見つめます。
「お前は、俺を怖がらないな。不気味だとは、思わないのか」
「不気味? どうして?」
「……俺は、狼だ」
「ええ、だけど人だわ」
 ミルドレッドはそっと、彼の耳に触れました。少年が体を震わせますが、ミルドレッドはそんなことお構い無しに微笑みます。
「人の姿をして、人のように考えているのなら、それは人よ」
「こんな耳をしていても、か」
「ええ、勿論。……自己紹介がまだだったわね。私はミルドレッド。ミルドレッド=イヴ=フォートリエよ」
「この街を治めているのが、フォートリエ伯爵じゃなかったか」
「ええ、私のお父様ね。とは言え私の権力なんて無いに等しいの、身分は気にしなくていいわ。それで、貴方の名前は?」
「……クルトだ。クルト=リーシェ」
 少年が名乗ると、ミルドレッドは明るく笑いました。
「そう。それじゃクルト、貴方、あと数時間空腹を我慢することは出来そうかしら」
「え?」
 首を傾げるクルトに、ミルドレッドは微笑を向けました。
「明日の朝、そうね……日が昇る頃に、この森の入り口で待っていて。食べ物、持って来るわ」
「良いのか?」
「ええ」
 笑顔のミルドレッドに、クルトはポツリと呟きます。
「変な奴、だな」
「あら、失礼ね。私のどこが変だと言うの?」
「俺みたいなのに優しくする時点で、相当。少なくとも、今まで出会った人間は俺を捕まえて殺そうとするか見世物にしたり売ったりしようとするか、軽くても石を投げるかだったからな」
「私が違うとは限らないわ。優しくしておいて騙す予定かもしれないじゃない」
 ミルドレッドが答えると、クルトは僅かに笑みを漏らします。
「こんな生い立ちだと、人間の本性くらいは見抜けるようになるんだぞ。……ミルドレッド。君は、本当に優しい人だ」
 彼女が初めて見た少年の笑顔は、思わず見惚れるほどに綺麗でした。

 ***

 その日から、ミルドレッドは毎日森へ行くようになりました。使用人にお弁当を多めに作ってもらって、クルトと二人で食べながら、色々な話をするのです。多めとは言え食べられる量はせいぜい一食分、足りないのではとミルドレッドは心配しましたが、二日に一度食事が取れれば良い方だったという彼は喜び、ミルドレッドは複雑に思いながらも彼との食事を楽しむのでした。
 ミルドレッドは彼に色々なことを話しました。義母が自分を嫌っていること。腹違いの弟もまた、自分に冷たくすること。父である伯爵はとても自分を愛してくれていること。使用人や民も、幸運なことに自分をとても好いてくれていること。だから権力は殆ど無いけれど、この街が嫌いでは無いこと。だけどもし父に何かあった場合、家を継ぐのは弟であり、そうなれば邪魔者でしかない自分はきっとどこか他の貴族の家に嫁がされること。それはきっと森二つ向こうの侯爵家であること。最近父の体調が悪いから心配なこと。
 彼はミルドレッドに色々なことを話しました。自分のような狼人間は他にもいて、小さな街で固まって暮らしていること。物心ついて間もない頃にその街に奴隷商がやってきて、自分や同年代の子供数人を攫ったこと。どこかに連れて行かれる長い旅の途中で、自分だけが逃げ出せたこと。故郷に帰ろうとしたけれど、とても遠くてすぐには帰れなかったこと。人間達に迫害されながら、遠い故郷へ少しずつ近付いて来ていたこと。彼の名は自分の家族のことで唯一覚えていられたものであること。
 二人の距離は当然のように縮まっていって、いつの間にか二人は互いに惹かれ合い、けれどそれを口に出すことなく毎日顔を合わせていました。二人とも、怖かったのです。万が一相手に拒絶されたら、と。
 居場所の無かったミルドレッドは、彼の隣にいられなくなることを恐れました。
 信じる相手のいなかったクルトは、唯一信じられる彼女を失うことを恐れました。
 臆病者の赤ずきんと狼は、別れはまだ先のことだと自分を誤魔化して、夢に浸り続けました。
 だけど……そんな二人の逢瀬は、ある日唐突に終わりを告げるのです。

 ***

 季節が巡り、再び冬がやってきました。
 二人が出会ってちょうど一年目のその日、ミルドレッドは来ませんでした。
 次の日もその次の日も、彼女はやってきませんでした。
 この一年間、ミルドレッドはほとんど毎日クルトに会いに来ていました。家の都合で来られない日もありました、そういうときは必ず前日に教えてくれていたのです。ミルドレッドは殆ど体調を崩しませんから、連絡も無しに姿を見せなくなるのは初めての出来事でした。
 そんな日々が一週間ほど続き、心配に思ったクルトは、生まれて初めての行動に出ました。自分から街に出たのです。街に行けない彼のためにミルドレッドがくれた帽子を被り、自らの耳を覆い隠して。自らに石を投げる人間に恐怖し、ミルドレッドに帽子を貰ってからも決して森を出ようとはしなかったクルトにとって、それはとても勇気のいることでした。だけど今のクルトにとって、ミルドレッドを失うことは他の何よりも恐ろしいことだったのです。自分はただ彼女の笑顔に甘えていたのだと、彼は気付いたのでした。
 初めて来た人の街は、しかし想像していたものとは違う、重苦しく物悲しい雰囲気に包まれていました。
 怪訝に思った彼は勇気を振り絞り、近くを通りかかった人に訊ねます。
「あの」
「おや、見ない顔だね。旅の人かい?」
 少し乱暴な言葉を喋る妙齢の女性の勘違いに、クルトはありがたく乗ることにします。
「あ、ああ、そうなんだ。この街の雰囲気が、聴いていたものとは違う気がして……もっと活気に満ちていると聴いていたんだが、何かあったのか?」
「ふむ……そうか、旅人さんなら知らなくて当然だね」
 女性は表情を暗くし……悲しげに、答えたのでした。

 クルトは住処となった森の中、ただミルドレッドの身を案じて過ごしました。
 それから一週間、姿を見せなくなってから二週間ぶりに、ミルドレッドは森を訪れました。
「ミルドレッド!」
 駆け寄るクルトを見て、彼女は安堵や嬉しさ、それに寂しさや哀しみの入り混じった、泣きそうな表情を浮かべました。
「クルト……」
 萌葱色の目から涙が落ちる直前、ミルドレッドはそれを見せまいとするかのように俯いて、彼の胸を力無く掴みました。クルトは少しだけ躊躇った後、そっと彼女の背に手を添えます。
 互いにとても弱々しいそれは、けれど確かに抱擁と呼べるものでした。
 震える声で、ミルドレッドは呟きます。自分がこの森へ来られなかった理由、流している涙の理由を。
「……お父様が、身罷られたわ」
 予想は出来ていたものの、クルトはその言葉に身を震わせ、ミルドレッドを抱く手に力を込めます。
「ああ、知ってる。街で、聴いた」
「そう……弟が後を継ぐことも?」
 クルトが首肯すると、ミルドレッドもまた、彼の胸に置いた手に力を込めます。それはまるで、しがみついているかのように。必死で。
「お父様がいなくなってしまった今、お義母様にはもう、私を屋敷に置いている理由は無いの。だか、ら……私」
 言葉を切り、ミルドレッドは顔を上げました。頬へと零れ落ちる雫を拭おうともせず、涙に濡れたその瞳でクルトを見上げます。
「わた、し。……弟が伯爵の名を継いだら、嫁がされることになったわ」
 これもまた、予想は出来ていたものでした。一週間前に街へ行って、確かに聴いた言葉。けれどミルドレッド自身に告げられたその事実は、何よりも彼を絶望させました。
 それでもクルトは、静かに問います。
「どこに」
「……ウェーナートル侯爵家。ずっと前から、そう決まっていたもの」
「そうか」
 彼女の答えに、クルトは嘆息しました。
 深く、深く。全て、諦めたかのように。
「……その方が。ミルドレッドは、幸せになれるんだろうな」
「――っ!?」
 クルトの言葉に、彼女は息を呑みました。
「あ、なたは……それで良いの?」
 目を逸らし、沈黙する彼に、ミルドレッドは問いかけます。
「私がこの街を離れてしまってもいいの?」
「……」
「私がここへ来られなくなってもいいの?」
「……」
「私と二度と会えなくなってもいいの?」
「……」
「私が他の男の人と結婚してもいいの?」
「……」
「私が、……貴方以外を愛しても、いいの?」
「……いいわけ、ないだろ!」
 それは一瞬の、だけど強い口づけ。
 ミルドレッドがそれに気付いた頃には、クルトは彼女を強く抱きしめていました。
「いいわけ、ない……君のことは何よりも誰よりも愛してるし、離したくない。会えなくなるのは嫌だし、他の奴にだって渡したくない……君にも、愛して欲しい、けど」
 クルトは彼女から片方だけ手を離し、耳に触れます。小さな頃から自分を苦しめた、獣の耳に。
「俺は、狼だ」
「っ、貴方は」
「ミルドレッドが何と言おうと。……何も知らない人間にとって、俺は化け物なんだ。俺は……君まであんな目に遭わせるのは、嫌だ。侯爵家に嫁げば、少なくとも飢えて死ぬことは無いし、石を投げられることも無いだろうから」
「……だから、嫁げというの? 貴方への想いを抱いたまま、好きでも無い男性に身を捧げろと」
 苦しげなミルドレッドの問いに、クルトは迷い、彼女から目を逸らして、呟くように答えを返しました。
「俺なんかを想う気持ちは、捨ててしまえば良い。元々、こうなることは分かってたはずだ」
 その優しげな言葉は、けれど何よりも残酷でした。
 絶望に目を見開き、何かを言おうとして。それでも何も言わずに、ミルドレッドはクルトから離れ、彼に背を向けました。
「……三日後。こちらの屋敷で、私とウェーナートル侯爵家令息との婚約の儀が執り行われるわ。お父様が亡くなられてまだそれほど経っていないから婚約だけの、それも簡素な……言ってしまえばただのお披露目のようなものではあるけれど。貴方が敷地内に入れるように、伝えておくから……」
 言葉を切り、彼女は振り向きました。未だに流れ続ける涙をそのままに、絶望も哀しみも諦めも全て入り混じった表情で。
「来て、くれるわよね? 私の……ただ一人の、友人として」
 断る理由など無く、クルトは静かに首肯しました。
 けれど――友人、というその言葉は、予想以上に二人を傷つけたのでした。

 ***

 三日後、前に街へ来たときのように帽子を被って、クルトはミルドレッドの家へとやってきました。
 隠れ住んでいた彼が初めて見る貴族の家はとても大きく、クルトが入るのを躊躇ったのは当然の流れでした。そんな彼の背を押したのは、周りにも同じように躊躇する民が大勢いたこと。ミルドレッドの提案か他の誰かが言ったのかは分かりませんが、どうやら平民でも今日だけは敷地内に入る許可が下りているようでした。それでも貴族の屋敷というのはどこか違う空気を放っているもので、だからこそ誰もが迷っていたのです。
 そんな人々の中、クルトは一人門の方へと歩みを進めました。自分が入れば他の民も入りやすくなる、と気付いて。貴族の中で一人浮くことは出来る限り避けたい事態でしたから、他にも平民がいることはとてもありがたいことでした。
 門の前に立つ、武装した男。出入りする貴族達は皆彼と顔見知りのようで、親しげに彼を労う言葉をかけては中へ入っていきます。クルトが男に近付くと、男の傍に立っていた一人の若い侍女が声を上げました。
「あら? あの、もしかしてクルト様でしょうか? お嬢様のご友人の」
「え――あ、はい、そうですけど……」
 戸惑いながらそう返すと、彼女はぱぁっと笑顔を浮かべます。
「話はお嬢様から聴いております、中へどうぞ! あ、そちらの方達もどうぞお入りくださいな」
 その微笑みに押されるように、周りにいた平民達は恐る恐る敷地内に足を踏み入れます。それを確認して、侍女はクルトに向き直りました。
「クルト様もどうぞ。婚約の儀というと堅苦しく聞こえますが、貴族ではない方もたくさん招いていることからもお分かりのように正式な儀式を行うわけではありません。ご馳走を振舞って、後はお二人からちょっとお話がある程度ですね。だからそこまで気を張る必要は無いのですよ。……とはいえ、クルト様が落ち着いていられるわけはありませんね」
 その苦笑から自分とミルドレッドの関係を知っているのかと悟ったクルトは、少しだけ踏み込んで訊ねてみます。
「あの、……どう、思ってるんですか? 今回の、ミルドレッドの婚約のこと」
 僅かに悲痛さすら滲み出るその問いに、侍女は表情を引き締め、けれど穏やかに答えました。
「私達も小さい頃からお嬢様のお世話をしてきましたし、思い人と結ばれることも叶わないお嬢様を可哀相だとは何度も思いましたわ。けれど、アーベル様――ウェーナートル侯の御令息はお優しい方ですから、お嬢様を邪険に扱うことは絶対にありません。お嬢様が幸せになられることを祈るばかりです。……クルト様にはお気の毒ですが」
「それを本人に言いますか」
 呆れつつ、いちいち自分を気遣う言葉を付け足すこの侍女にクルトが勇気付けられたのも確かで……
 彼の名を呼ぶ声が響いたのは、そんなときでした。
「なるほど、貴方が姉上の『友人』ですか」
「ラルフ様……!?」
 侍女の驚愕の声を背に振り向くと、そこに立っていたのは白銀の髪の、整った顔立ちの少年でした。ミルドレッドと同じ萌葱色の瞳には、けれどどこか冷たい色が浮かんでいます。
 なるほどこれがそうなのか、とクルトは心の中で呟きます。ミルドレッドと伯爵夫人のどちらにも味方せず中立を貫き、ミルドレッドに冷たく接していたという腹違いの弟。もうすぐ伯爵となる少年――
「ラルフ=ヴェリ=フォートリエです。姉がお世話になったようで」
「……クルト=リーシェです、フォートリエ伯」
「まだ正式に伯爵を継いだわけではありません、そう畏まらずとも構いませんよ」
 彼……ラルフは冷たく微笑み、侍女の方に視線を向けます。
「アニタ、少し彼に話があるんだ。借りて行って構わないかな」
「あ……は、はい。私が引き止めてしまっていたようなものですから……」
「そう、それじゃ話が終わったらそのまま会場に連れて行って構わないね」
 淡白に返して歩き出すラルフを、クルトは慌てて追いかけました。
「ラルフ様。俺なんかに話って――」
「貴方の経歴からすれば仕方ないのかもしれませんが、そう自分を卑下するものではありませんよクルトさん。それと言ったでしょう、畏まる必要はありません。敬語、使い慣れていないのでしょう? どうせここには誰にも来ません、使わなくて構いませんよ」
 そう言ってラルフが足を止めたのは、確かに誰も来ないであろう、庭園の奥でした。
 クルトはありがたくその言葉に乗ることにします。
「で、俺に何の用なんだ? ラルフ様」
 敬語こそ止めたものの『様』を外すことは無いクルトに、彼は苦笑しました。
 ……そう、それはどう見ても苦笑でした。その顔に彼がさっきまで浮かべていた冷たさは欠片も無く、訝しげに眉を顰めるクルトにラルフは再び苦笑します。
「ですから、そう怖い顔をなさらずとも結構ですよ。……その様子では、屋敷の者から僕に関する噂でも聴きましたか。いや、クルトさんは姉と仲が良かったのでしたね……あれだけ冷たく接していれば、姉上に嫌われてしまっても仕方ありませんか」
 その人間味に溢れた悲しげな微笑に、クルトは思わず訊ねます。
「えっと……自分から冷たくしてたわけじゃないのか? 母親に脅されてたとか……?」
「いいえ」
 予想に反し、ラルフはゆっくりと首を横に振りました。
「自分から姉に冷たく接していたことは、事実ですよ。……そうしなければ、母の目を欺くことなど出来ませんでしょうからね」
「……それは、どういう」
「何の用か、と言いましたね」
 クルトの呟くような問いには答えず、少年は顔を上げました。
「頼みがあるのです、クルトさん。もし貴方が、姉上を愛しているのなら」
 悲痛なまでの決意に満ちた、少年らしくない、けれど今まで彼が見せた中で一番少年らしい表情で、彼はクルトを頼りました。
「どうか……姉を、救ってくれませんか」

「『救う』……なるほどな、こういうことか」
 婚約の儀とは名ばかりのお披露目の、その半ば。逃げ惑う人々の中、ただ一人じっと立ったままのクルトは呟きました。視線の先には、怯えるように祈るように目を見開き手を組んだミルドレッドと、彼女を守るように立つ一人の青年――恐らくミルドレッドの婚約者、侯爵家の令息アーベルの姿があります。二人が人々の中心で挨拶をしている最中に、突然慌てた門番が駆けてきて、街に魔物が侵入してきたと知らせたのでした。それから数分して、この会場にも小さな魔物が何匹か入ってきたのです。それらは全て人を傷つけることの無い無害なものでしたが、街で暮らす人々はそんなことは知らず、ただただ混乱するばかりでした。
 そんな中クルトが冷静でいられたのは、単にそれらが無害なことを知っていたからでした。獣の耳を持つがゆえに街の中で暮らせなかったクルトにとって、魔物の住処たる森の中を歩くことも、その中で野宿することも、場合によっては戦うことすら日常茶飯事だったのです。
「しかしラルフ様、こうなることを知ってたっぽいな……この魔物もあいつの手引きか? 流石にそれは無いと思うが、適度に客を混乱させつつ被害を出さない自信があればやってのけてもおかしくはないよな……」
 始まる前にラルフに頼まれたことを思い出しながら、クルトは独り言を続けます。その足は、自然とミルドレッドとアーベルの方へ。
 近寄るクルトに気付き、アーベルが僅かに頬を緩めました。ミルドレッドがそれと真逆の表情を浮かべるのは、二人とも見てみぬ振りをします。……というより、そうせざるをえないのでした。数日前の別れが二人に与えた傷はまだ残っていて、互いに自分から声をかけることを躊躇わせたのです。実際、真っ先に口を開いたのはアーベルでしたから、それでも全く問題はありませんでした。
「クルト君か。ラルフから話は聴いているね?」
「ええ、初めましてアーベル様。――後は貴方の指示に従って欲しい、と」
「君も異論は無いのだね?」
「もちろん」
 首肯するクルトを見て、彼は笑みを浮かべます。
「そうか。……さて、ミルドレッド」
「な……何ですか、アーベル様」
「お別れだ」
「きゃっ!?」
 言い放ち、アーベルは彼女をクルトの方へと突き飛ばしました。当然クルトは受け止めますが勢いは消せず、そのまま倒れます。
「アーベル様……力加減と言うものをご存知ですか」
 ミルドレッドの下、呆れ気味に呟くクルトに、アーベルは平然と答えます。
「ふむ、残念ながら知らないな」
「これだから貴族って奴は! ……ミルドレッド、大丈夫か? 怪我は?」
 さっきまでの躊躇いも忘れてミルドレッドを心配するクルトに、彼女は困惑の色を浮かべながら首肯します。
「え、ええ、大丈夫よ……クルト、貴方アーベル様と知り合いだったの? それにラルフとも……」
「いや、二人ともついさっき知り合ったばかりだけど」
「その割に貴族に対する礼儀がなっていないがな、君は」
 苦笑するアーベルに対し、立ち上がってミルドレッドを助け起こしたクルトは苦笑しました。
「狼ですからね」
「ふむ、なかなか面白いな、君は。……もう少し話していたいのだが、ラルフは優秀ゆえに手加減も苦手らしくてね、この程度の魔物の群れならすぐに掃討してしまう。彼の慣れない時間稼ぎを無駄にしないためにも、私はさっさと君に指示を出さねばならない」
「指示? アーベル様、クルトに何か危険なことでもさせるおつもりですか? そんなことをしなくても私は――」
 不安げに声を上げるミルドレッドに、クルトは微笑みます。
「大丈夫だミルドレッド、悪いようにはならないさ」
「そうだな、君は少し勘違いをしているよ。そのままでは後でクルト君が辛い思いをするだけだ、もう自分の想いを隠す必要は無いさ。……クルト君」
「はい」
「魔物達が掃討され客や使用人が冷静になる前に、ミルドレッドを連れて逃げなさい。君には誘拐犯になってもらう」
「え?」
 目を見開いたミルドレッドの手を握り締めて、クルトは頷きます。それを確認して、アーベルは続けました。
「街の外、君とミルドレッドが会っていた森を抜けたところに馬車を用意してある。御者はいないが、まぁ人間やってやれないことはないだろう。食糧は多めに積んであるから、何とか君の故郷の街に行きなさい。そこなら私達貴族の力も届かないし、君が迫害されることもないのだろう」
「そこまで調べていたわけですか」
 肩を竦めるクルトの隣、状況を理解したらしいミルドレッドは歓喜と焦りの入り混じった表情で反論しました。
「ま、待ってくださいアーベル様! 私がいなくなったら、フォートリエ伯爵家は……! 元々これは、この家とウェーナートル侯爵家の結びつきを強くするためにと行われる縁談だったはずでしょう!」
「ミルドレッド。自己犠牲が常に幸せを導くとは限らないのだよ」
 青年の声は、とても静かでした。
「逆にそれぞれがエゴを突き通した結果が幸せを招くこともある。……私の妹はラルフと手紙を交わしていてね、仲も良好のようだ。彼らが結ばれれば目的は果たされるし、私も本来の想い人に求婚出来るのでね」
「本当ワガママですね、貴族って奴は。ミルドレッドは除きますが」
「君には一度貴族への口のきき方を学んでもらう必要があるようだね、クルト君」
 冷ややかに言った後、彼は笑顔でミルドレッドへと向き直ります。
「そういうわけで、君がクルト君に『攫われた』ところで、実はそれほど影響は無いのだよ。クルト君の罪についても、私とラルフが二人がかりで庇った上に裏で細工してしまえばもみ消せないことも無いだろう。……クルト君、君のためを思ってすることなのだからその非難の視線は止めていただきたいね」
「失礼、長年迫害されてきたもので、警戒の癖が抜けなくて」
「それは難儀なことだ」
 アーベルは肩を竦め、屋敷から出る門を指差しました。
「さぁ、早く行きなさい。街も今はまだ混乱に包まれていることだろう、よほどのことがない限り引き止められはしないさ。……ああ」
 そこで彼は何かを思い出したように言葉を止め――ミルドレッドの服に両手をかけて、引き裂きました。
「きゃああああああっ!?」
 当然彼女は悲鳴を上げて裂かれた服を抑えますが、その下に肌は見えないどころか、破れたドレスの残骸を掃えば、残ったそれはそれはまるで平民の着る服のようでした。
「ドレスでは走りにくいだろうからね、仕立てる際に少し細工をさせてもらっていたのだよ。馬車に着替えや上着がある、それまでは寒いだろうが我慢しなさい。その紅い髪も目立つが……まぁ、街を走っていたという目撃証言くらいあった方が、後で色々と便利だろう。君の継母に君を諦めさせることも容易になる。彼女は愚かで傲慢ではあるが馬鹿じゃない、行方不明になった人間に対して、わざわざ探し出してまで嫌がらせをしようとは思わないはずだ」
「そ、そう……それだけですか……良かった」
 心底安心したようにクルトにしがみつくミルドレッドに対し、クルトは赤面し、アーベルは首を傾げます。
「まさか私が情欲やら色欲やらの感情からこんな行動に出たとでも思ったのかね? 心外だな」
「いや、まあ、説明も無かったので当然かと……それはさておき、流石にそろそろ行かなければまずいでしょうね。お世話になりました、アーベル様」
「例には及ばないよクルト君、これは君とミルドレッドのエゴであると同時に私のエゴでありラルフのエゴでもあるのだから。……ミルドレッド」
「は、はい」
 アーベルはミルドレッドを……クルトの袖を握って離さない彼女の手を見て、優しく、そしてほんの少しだけ寂しそうに微笑みました。
「君に恋情を抱いたことは無かったが……それでも君の優しさには、随分と励まされたよ。これまで私を婚約者として受け入れていてくれたこと、感謝する。もうクルト君と離れず、二人で幸せになるのだよ」
「……ありがとうございます。アーベル様も、どうかお幸せに」
「ああ」
 そんな彼に微笑み返し、ミルドレッドはクルトの袖を引っ張ります。
「さぁ、行きましょうクルト。私、貴方に言いたいことがたくさんあるの」
「あ……そ、そうだな。アーベル様、それじゃ」
 二人は同時に振り返り、門の方へと駆け出しました。アーベルの言葉通り、魔物に戸惑う人々は二人に気付いても呼び止めたりせず、二人は楽々門を抜けて街へと出ます。街の中も魔物に溢れていましたが、二人は構わず走り続けました。
「ク、クルト」
「何だよ?」
「こ、これ、この魔物達……放っておいて大丈夫なの? というか、私達を襲ってはこないのかしら」
「ああ、こいつらはこっちが何かしない限り無害だよ。それに雑魚だし、駆逐しようと思えば簡単に出来るだろう。ただ数が多いからてこずっているだけだと思う」
「そう……詳しいのね」
「詳しくなきゃ森の中で野宿なんてとてもとても」
 走りながら、クルトはミルドレッドに全てを説明します。次期侯爵と次期伯爵の立てた計画に、自分が乗ったことを。今まで自分に冷たくしていた弟が自分を助けるためにクルトに頭を下げたことを聴いて、ミルドレッドは困惑と嬉しさの混ざったような、複雑な表情を浮かべ……けれどクルトが自分のためにそれに協力したと知ると、今度は恥ずかしそうに微笑むのでした。
 そうして、やがて辿り着いた森の入り口には、一人の少年が立っていました。
 ラルフ=ヴェリ=フォートリエ。銀髪に萌葱色の瞳の、冷たい表情の次期伯爵――ミルドレッドの、腹違いの弟。木にもたれかかっていた彼は、駆けてくる二人の姿を確認して体を起こしました。
「遅かったのですね、二人とも」
「ああ、アーベル様に長話をされたからな。魔物の掃討はどうしたんだ、ラルフ様?」
「ですからそう怖い顔をしないでいただけますかクルトさん、結構怖いです。……数分もかからない作業ですからね、お二人を見送ってからでも遅くはないと思いまして」
 肩を竦め、ラルフはミルドレッドに向き直りました。
「それに、……姉上に、言いたいことがあって」
 彼の言葉にミルドレッドは肩を震わせ、けれどクルトに促すように背を押されて、自分と同じ色の瞳を見つめます。
 そんな姉に対し、ラルフは躊躇いがちに口を開きました。
「姉上。その…………ごめんなさい」
 僅かに震えた声は、そのまま彼の決意だったのでしょう。冷たくしてしまったのだから、許されなくても仕方がない――と。
 それでもミルドレッドの答えを待つ少年の手に、彼女はそっと触れます。
 ラルフの手も、それを包み込むミルドレッドの手も、同じくらい震えていました。
「私も、謝らなければいけないわね」
「え?」
「ずっと、寂しかったの。たった一人の弟なのに、仲良くすることも出来ないのかって。だけど、クルトから聴いたわ。全部私のためだった、って……だから、誤解していてごめんなさい。それと、ありがとう」
「姉上」
 ラルフの顔が泣きそうに歪み……けれど涙は一滴も零さずに、彼は僅かに微笑みました。
「……手紙を。無事に逃げ切って、落ち着いたら、手紙をくれませんか。一度だけで構いませんから」
「ラルフ……ええ、約束するわ」
 その言葉を聴いて……今度こそ彼は心から微笑み、クルトに視線を向けました。
「アーベルに聴いていると思いますが、馬車はこの森を抜けたところにあります。何箇所か魔物が大量に発生しているところがありますが、クルトさんなら心配するほどのことでもないでしょう」
「そうだな、多分大丈夫だろ。案内もいらない」
「でしょうね。では、僕はそろそろこの事態を収めてくることにします。……姉上を頼みます、義兄上」
「っ!」
「……ああ、頼まれた」
 ラルフの僅かにからかうような言葉に、ミルドレッドは顔を赤らめ、クルトは力強く首肯します。
 そうして、それ以上は一言も交わさずに、三人は分かれたのでした。

「お、馬車発見。ってか豪華だな……うわ何だこれ、無駄に装飾とかついてるぞ。これだから貴族って奴は……!」
「前からそうだったけど、貴方本当に貴族に対する偏見が凄いわね」
 くすりと笑うミルドレッドに対し、クルトは笑い返します。
「ただしミルドレッドは除く。……ようやく笑ったな」
「え?」
「これでも心配してたんだぞ、さっきまで一言も喋らなかったし」
「え、あ……そ、それは、だって……」
 クルトの言葉に、ミルドレッドは戸惑うように視線を彷徨わせ、そして不安げにクルトを見上げました。
「……まだ、信じられないんですもの。さっきまで、貴方と会うのは今日が最後だって、殆ど諦めていたのに」
「あー……まぁ、俺から突き放したようなものだしな」
 クルトは数日前の別れを思い出し、苦笑します。
「それでも俺は、ミルドレッドに幸せになってほしかったんだ。この間も言ったけど、俺と一緒にいれば、きっとミルドレッドは辛い目に遭うから……そんなのは俺だけで良いって思ってたんだけど」
「けど?」
「アーベル様が言っていただろ? それぞれがエゴを突き通した結果が幸せを招く。俺達が逃げれば、アーベル様もクルト様も幸せになれる。俺はミルドレッドと一緒にいられれば幸せだ。だから……ミルドレッドも、同じなら。ミルドレッドも、不自由の無い貴族の生活を捨てて、俺と一緒にいることが幸せだと言うなら」
 そこでクルトは彼女に正面から向き直り、そっと片手を差し出します。
「それなら俺は、ずっとミルドレッドの隣にいるよ。一生君を守ると、誓う」
 微笑むクルトに、ミルドレッドは驚いたように目を見開いたまま、呟くように言いました。
「えっと。……プロポーズ?」
「ああ、そのつもり」
「……っ」
 何でも無さそうに頷く彼を見て、ミルドレッドは赤面し……けれどやがてその顔に微笑を浮かべて、差し出された彼の手を取るのでした。

 こうして、孤独で臆病だった赤ずきんと狼少年は、森の外の世界へと踏み出しました。
 二人の物語の続きは、長い間吟遊詩人達に語り継がれるのですが……

 とりあえず今は、めでたしめでたし。

2011/01/21
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