かつて、人は奇跡の女神と呼ばれる尊い存在によって魔法を与えられていたのだという。女神を敬い、光を抱き、罪を犯さず生きる善い人間は、一生に一度だけ、奇跡を起こす権利があったらしい。だから当時は犯罪者などほとんどいなくて、みんな幸せに暮らしていたと。
 女神の言い伝え自体は、今も色褪せず残っている。この世界に生きる者なら誰もが知っているのも、恐らく変わらないだろう。
 けれど、それが『御伽噺にして昔話』であったのは、遠い過去のこと。荒廃しきったこの世界で、罪を犯さずに生きていけるわけがない。善良なままでは、生き残れない。それを知った私たちの先祖は光を捨て、奇跡を捨て、剣を取って生きる道を選んだ。
 今となってはもう、女神の奇跡はただの『御伽噺』でしかなくなって、絵本の中の呪文を唱えてみても奇跡なんて起こらない。辛うじて女神信仰は残っているけれど、人々は祈ることすらしなくなった。それで救われるわけではないのだと、みんなが知っているから。

 ああ、だけど。
 願わくはどうか、貴方が――

 ***
 死刑囚の首を狩るのは難しい。少なくとも、素人が一朝一夕で身に付けられる技術ではない。
 いや、首を刎ねること自体は簡単だが、慣れない者が剣を振っても、中途半端に皮一枚で繋がってしまったり、もっと未熟な人間がやればそもそも骨を断つことすら出来ないという。それは恐らく、跪いて振り下ろされる剣を待つだけの罪人にとっては想像を絶する恐怖であり、苦痛であることだろう。
 死を言い渡されるほどの罪を犯した人間に与えられる最後の慈悲、それこそが私たち――つまり、死刑執行人の一族だった。人の首を狩る技術を幼い頃より教え込まれ、罪人を導くためだけに生きることを定められた集団。
 この世界は決して、首狩り人に優しい世界ではない。命を奪う汚い仕事だと、王族や貴族は蔑むし平民や罪人は恐れる。唯一家族だけが優しいが、首狩りの数は年々減っていて、成長すれば人手の足りない地域へ旅立たなければいけなかった。そのときには、愛する家族とも別れなければならないのだ。そう、数年前の私が故郷から旅立ち、この地に辿り着いたように。一度別れれば、もう家族と再会することはないだろう。分かっていたけれど、その程度のわがままで役目を放棄することなど出来なかった。
 あれはいつのことだっただろう、と剣を磨きながら振り返る。明日もまた私が導くべき罪人は大勢いて、とても夜更かしなどしている場合ではないのだが、私とて人間なのだ。たまには過去を懐かしみ想い出に浸りたくなる時もある。こんな仕事をしていると、いつしか心が凍りついてしまいそうだから。……その方が楽なのかもしれないけれど、私は『人間』でいたかった。

*

 まだ私が両親と共に暮らしていた頃のこと……十年ほど、いやもう少し前だっただろうか。世界のどこに行ってもそうであるように、当時住んでいた町でも、首狩り人への差別は激しかった。だからだろう、父と母が仕事で出かけている間、私は決して屋敷から出ることを許されなかったのだ。使用人などいるはずもなく、広いだけの無機質な家で、孤独に一日を過ごしていた。

『ねえ君、いつも一人で何してるの?』

 だから唐突にそんな声が降ってきた時には、心臓が止まるかと思ったのだ。
 見れば私と外界とを隔てる柵の向こう、私と同い年くらいの少年が、不思議そうに微笑んでいた。伸ばされた手を取ってはいけない、一瞬だけそう思ったけれど、孤独は幼い子供にとっては重すぎる。握った手の温かさは、今でも覚えていた。
 それから彼は毎日私を訊ねてきて、けれど私は家を出られなかったから、柵越しにたくさんの話をした。驚いたことに、少年は私を知っていた。私の家のことを知っていた。知っていて、それでも構わないと私に手を差し出したのだ。生まれた家に罪はない、私に罪はない。罪人にも慈悲を与え導く私たちの仕事の、どこを蔑むのか、と。
 嬉しかった。そう言ってもらえるのは初めてで、友人が出来たのも初めてだった。私は一人ではなくなって、同時に一生知るはずの無かった、淡い恋すら知ったのだ。
 けれど私もまた、首狩りの家に生まれた女だった。成長し、執行人としての技を身に付ければ、町を出て役目を果たさなければならない。
 ……彼とも、別れなければいけなかった。
 そのことは、彼には黙っていた。別れを告げればきっと、私は泣いてしまうだろうと、そう思ったのだ。旅立つ前日まで少年は訊ねてきて、私もいつも通りに振る舞った。またね、という彼の言葉に、泣きそうになるのを堪えながら手を振った。次の日、夜が明けるより前に、私はひっそりと町を発った。
 ――以来、彼には一度も会っていない。

*

 刺すような朝日が恨めしくて、私は顔をしかめた。けれど、だからと言って引き籠っているわけにもいかない。深く嘆息し、壁に立てかけてあった剣と、他にもいくつか持ち歩いている得物を取って、足早に家を出る。
「……余計なことまで、思い出しすぎましたね」
 彼のせいだ。目が覚めてからずっと、あの日々がぐるぐると胸中に渦巻いていた。馬鹿な真似を、と自分自身を嘲笑う。もう二度と会えないのだ、思い出すだけならまだしも、こうしてずっと考えていることに意味などない。ただ辛くて、哀しくて、虚しいだけだろうに。そう自分に言い聞かせても、歩いている間というのは暇を持て余すものだ。
 彼と別れたとき、私も彼もまだ子供だった。あれから数年が経って、私だって少しは成長したつもりだ。背は伸びたし、体つきだって女性らしくなった……はず。それと同じように、彼だっていつまでも幼い少年のままではないに決まっている。
 背は、どれくらい伸びたのだろう。当時は私の方が少し高かったのだけれど、流石に追い越されただろうか。町長の息子ではあるけれど、兄がたくさんいるから自分は後を継げないのだと言っていた。なら今は、一体何をしているのか。……幸せに、暮らしていてくれればいいけれど。
 会いたい。その気持ちを認めたらもう立ち直れない気がして、私は唇を噛み締める。顔を上げれば、刑場である広場は目の前だった。刑に処される罪人は町外れにある牢獄からここまで歩かされることになる。その間に住人に石を投げつけられたりして、ここに着いたときには至るところに怪我を負っていることも少なくない。そうでなくても、鎖に繋がれて自分が最期を迎える場所まで歩くのだ。精神的な負担は大きいだろう。直前に拷問を受けていることがほとんどだから、なおさら。
 拷問人と死刑執行人を同じものだと思っている人間は多い。実際、町によってはそうであるから間違いではないのだけれど、この町では一応区別されていた。拷問場では拷問人が、この広場では私が手を汚す。首を狩るだけでなく、他のありとあらゆる『処刑』を担当しているのが私だ。その技術は修めているから問題ないけれど、罪人が苦しむ類の処刑は、まだ少しだけ心が痛んだ。
 今日はどうやら、そういった特殊な処刑は行わないらしい。そのことに僅かに安堵し、広場の隅で罪人を待つ。やがていつも通り、広場の隅から一行が現れたのだろう、その辺りにいた聴衆がざわめいた。

 どくん、と心臓が脈打つ。

「……?」
 思わず顔を上げ、私は入ってきた罪人を見た。俯いていて顔は分からないが、恐らく男だろう。纏っている服はところどころに血痕がついていたり破れたりしているけれど、それなりに上質なものだった。どこか裕福な家の出なのか。それは珍しいけれど、たまにあることだから驚きはしない。なら、この胸騒ぎは、一体どうして。
 硬直する私の方を、不意に男が振り向く。ここに来る前に何かあったのか、左目の位置には雑に包帯が巻かれていて、血が滲んでいた。男はどこか驚いたように右目を見開いて私を見つめ、やがて嬉しそうに微笑む。
 脳裏に映るのは、雑音混じりの思い出。温かい手、無邪気な笑顔。ああ、私は確かに、彼を知っていた。
「――どうして?」
 何故貴方がそこにいるの。そこに立った人間の命を、私は奪わなければいけないのに。それなのに、どうしてそんなに嬉しそうに笑うの。
 二度と会えないと思っていた、少年だった青年を見つめて、私は呆然と呟いた。

*

 前の町長が何者かに殺された、という噂は知っていた。その犯人が捕らえられたというのも聞いていて、……恐らくそれを処刑するのも私だろうと予想はついていた。けれど、『犯人』が数少ない知り合いだなどと、誰が予想できただろうか。
 今の長はそれなりに良識的な人物だが、前の町長はそれは酷い暴君だったらしい。私がここに来る前に代替わりしたから詳しくは知らないが、町の住民たちに恨まれていたのは分かる。だからだろう、この広場では珍しいことに、住民たちが彼に向ける目はどこか同情的だった。
 彼の罪を説明し、斬首に処すと言い放った役人もそれは同じ。……仮にも町長だった人間を殺めて斬首で済むというのも、その辺りが関係しているのだろう。
「少しだけ、彼女と話をさせていただけませんか?」
 本来なら跳ね除けられるべき彼の問いに、役人が戸惑うような表情を浮かべたのも、恐らくそのせいだった。私に向けられた視線に嘆息し、軽く頷く。
「少しくらいなら構いません。下がって頂けますか」
 役人が離れるのと入れ替わるように、青年に歩み寄る。広場の中央に跪かせられた彼は私を見上げ、懐かしそうに微笑んだ。
「久しぶりだね」
「……何故、貴方がここにいるのです」
「君を探していたんだ。本当は普通に会いに行こうと思ったんだけど、……色々とあって」
 まさか前の町長だなんて思わなかった、と不満そうに呟く彼に、私は思わずほんの少しだけ笑みを零した。懐かしい。子供の頃、彼はたまにそういう顔をしていたっけ。
「おかげで英雄扱いですよ、貴方。その目はどうしたんですか?」
「……拷問人は町の人たちと違って、罪状はどうでもいいみたいだね。殺されるかと思ったよ」
 その言葉に、何が起こったのかを察する。あの男の頭のおかしさも筋金入りだ。奴が殺すべきではない相手を『うっかり』殺してしまったことも多いというのに、全く懲りる様子が無い。
「それにしても、綺麗になったね。一瞬誰かと思ったよ」
「……貴方こそ、大きくなりましたよね。見ましたよ、私より高いじゃないですか」
「格好良くなった、とは言ってくれないの?」
「勢い余って死に値する罪を犯してしまうような人を格好良いとは呼びません」
 嘆息し、同時に自分にそう言い聞かせる。そうだ、私はこの後、彼を殺さなければいけないのだ。昔を懐かしむ時間など、もう残されてはいないというのに。
「命乞いは、しなくていいのですか? 昔馴染みなのだから助けてくれ、とか。貴方だって、ここで死にたくはないでしょう」
「僕はそんなに無責任な人間じゃないよ。自分の犯した罪の重さは、ちゃんと理解してる。……君に殺されるなら、本望だ」
「っ」
 曇りない笑顔が、私を射抜いた。私の表情が強張ったのが分かったのだろう、彼は申し訳なさそうに「ごめんね」と付け足す。……謝るなら最初から言うな、この馬鹿。
 深く深く嘆息し、彼から一歩離れて剣を抜く。一旦それを民衆に向かって掲げ、彼に向き直ると、私は睨むように彼を見据えた。

「……魔法の祖、奇跡の女神クローディアよ」

 小声で囁くのは、御伽噺の中に出てくる魔法の呪文。もっとも、今ではもうそれが使える人間はほとんどいない。否、たとえ奇跡が存在した時代であっても、その手を血に染めて暮らす処刑人が奇跡の条件を満たせるわけがない。光を抱き、善良に生きる者にだけ、奇跡は起こるのだから。
「私は……貴女を信じたことはありません。私が魔法を使えるとも、今この瞬間すらも、信じてはいません。けれど、気休めでも構わないから……」
 どうか、貴方が――
「……私が初めて愛した人が、安らかに眠れますように。それが、私の魔法です」

 私の言葉に、彼が目を見開く。その瞳を僅かに潤ませて、彼は掠れた声で「ありがとう」と呟いた。私まで涙が滲みそうになるのを、どうにか堪える。視界が不明瞭なせいで上手く首を刎ねられずに彼を苦しめてしまいました、なんてことになったら台無しだ。
 役人に促されるままに石の台に頭を乗せた彼の、その首筋に狙いを定めて、剣を振り上げる。……躊躇うな。彼を想うなら決して、躊躇ってはいけない。すぅと息を吸い、剣を握る手に力を混めて、一気に振り下ろす。


 剣と石がぶつかり合う、鈍い音が響く。
 それに混じって聞こえた言葉無き声に、私は願いが叶ったことを知らされた。



 ***


 誤った伝承。
 罪を犯した者であれ、光を抱けば奇跡は起こる。
 ゆえに、少女のささやかな願いは叶えられた。


 しかし少女の喪ったものは大きく、
 残酷な世界から逃げ出すことも許されず、
 僅かな幸せを望むことなど、最初から叶わない。


 ――今もまだ、女神の奇跡は「御伽噺」のまま。

2013/05/28
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