昔々、神などおらず奇跡も無かったこの世界に、ある日、女神様が降り立ちました。
 女神様は仰いました。光を抱け、と。自分を信じ、善良に生きるのなら、貴方たちを不幸にはしないと。光を抱いて生きるのなら、一生に一度だけ、その願いを叶えてあげましょうと。
 罪を犯すことを止め、争うことを止め、祈ることを始めた人々に、女神様はその御言葉通り、魔法を授けてくださいました。それはほんの小さな奇跡でしたが、死ぬはずだった命が助かり、滅ぶはずの国が続くのには十分でした。人は幸せになり、ますます女神様を崇めるようになりました。けれど、人々は知らなかったのです。
 奇跡の女神クローディアが、一体どこからやってきたのか。
 奇跡の女神は、何故人を助け、奇跡を起こそうとするのか。
 クローディアという女神が、どうして世界に生まれたのか。
 それを疑問に思う者は、誰もいなかったのです。

 ***

 寝台の上に体を起こし、リーリエはぱたんと本を閉じた。窓から差し込む青い月明かりだけでは、これ以上細かい文字を追うのは難しいだろう。不可能ではないが、視力の弱ったリーリエには辛い作業だ。電気を付けたかったが、見回りの看護師に見つかって本を見られてはまずい。そもそも、もう満足に歩けない彼女には、壁際にあるスイッチまで辿り着く自信も無かった。
 ふぅ、と嘆息し、リーリエは手元の本に視線を下ろす。分厚く、古びたその本には、様々な奇跡が描かれていた。
 例えば、罪を犯してなお光を抱き、幼い頃の誓いを信じ続けた騎士と姫君の奇跡。悪魔の囁きに耳を貸してまで再会を願った少年が、死せる少女に捧げる奇跡。全てを奪われ、全てを捨て、廻った先でようやく幸せを掴んだ復讐鬼と少女の奇跡。世界を渡る奇跡を願った少年はやがて女神に牙を剥き、首狩りの少女は想い人に断罪と安らかな眠りを授け、青年は機械の少女に命を与える。
 それは全て近い異世界で実際に起きたことで、けれどこの世界の人間は決して知り得ない事実だった。リーリエが知ることも、それどころかこの本の存在すら、本来なら許されない。誰かに知られればどうなるか分からないが、それでも彼女は本を手放したいとは思わなかった。誰がどうやって記したのか、何も分からないその本は、けれど確かに父の形見なのだ。天涯孤独となったリーリエの、最後の肉親が遺してくれた、たった一つの。
 御伽噺にして昔話――女神クローディアと奇跡の伝説は、リーリエの生きるこの世界にも存在した。彼女の知人にも、奇跡を起こした人間は少なからず存在する。ゆえに、リーリエは自分もまた魔法を使えることを知っていた。それが、彼女が再び元気に外を歩けるようになる唯一の手段であることも。けれど、リーリエは既に自分が使う魔法を決めていた。

「魔法の祖、奇跡の女神クローディアよ」

 廊下に声が漏れないよう、小声で。けれど歌うように弾んだ声で紡がれた呪文は、不思議と部屋に響く。
「私が貴女に延命を望むことはありません。生き長らえたところで、喜んでくれる家族ももういませんし。ただ一つ、貴女に直接訊きたいことがあるのです。
 奇跡の女神の真実を暴くこと。それが、私の魔法です」
「……暴く、とは、穏やかではありませんね」
 いつの間にか寝台の脇には、質素な部屋には不釣り合いなほどに神々しく輝く、美しい女性が佇んでいた。舞い散る白い羽の一つを手に取り、リーリエは微笑む。
「だってクローディア様、きっと話したがらないでしょう? それを無理やり訊き出すんだもの、暴く以外の何だっていうんですか?」
「そうと分かっているのに、訊ねるのですね」
「はい。私は知りたいんです。クローディア様という、奇跡の女神が生まれた理由を」
 もうすぐ終わりを迎えるリーリエにとって、女神は畏敬の対象ではあっても、恐れるべき存在では最早なくなっていた。彼女の怒りに触れたところで、自分の結末は変わらないのだから、と。そんな少女の思惑を読み取ったのだろう、奇跡の女神は呆れたように目を細め、哀しそうな微笑を浮かべる。
 それはとても人間らしい表情だと、リーリエは思った。

 ***

「ディー、いつまで祈ってるんだ? 夜になっちまうぞ!」
「……もう、お兄ちゃんったら」
 流石にそんなわけがないだろう。わたしは組んでいた指を解いて立ち上がると、服の裾を軽く払い、神殿を後にした。入り口から呼んでいた兄は、わたしが近寄ると楽しそうに頭を撫でてくる。
「本当に信仰心が強いんだなぁ、ディーは。俺にはとても真似出来ないよ」
「わたしはそんな……神様はずっとわたしたちを見守ってくださっているっていうんだもの、家族の幸せを祈って何が悪いの?」
「いやいや、悪くはないさ。凄いなぁ、って言ってるんだ。将来は神官様か?」
 兄は簡単に言うけれど、それは無理な話だった。わたしを都会に出して何年も勉強させる余裕が我が家にあるとは思えないし、その後は神官様の推薦を頂いて、神官見習いとして神殿に入らなければいけないのだ。推薦の当ても、わたしにはない。それに、理由はもう一つある。
「……わたし、家から離れたくないもの」
「ディーらしいよ」
 わたしの言葉に兄は苦笑し、またわたしの頭を撫でてきた。けれど彼はふと真顔になり、余計な言葉を付け足す。
「だからって、クライドのため、何て言うのは許さないからな」
「なっ、何でそこでクライドが出てくるのよ!」
 隣の家に住む、幼馴染の少年の名前に、わたしは思わず赤面した。そんなわたしを見て、兄は不機嫌そうに顔をしかめる。
「この間一緒に歩いてた、って……まさか本当だったのか? 駄目だからな、兄ちゃん許さないぞ」
「許すって、何を? 違うのよ、クライドはそんなんじゃ」
「じゃあどんなだよ」
「それは……、……お兄ちゃんは、クライドは嫌い?」
 言葉に詰まったのを誤魔化すように見上げれば、兄は「うっ」と呻き、わたしから目を逸らした。
「そりゃ……悪い奴じゃないし、良い弟分だとは思うけど、さぁ」
「なら」
「それとこれとは別だ! 大体――」
 お兄ちゃんはそこで、不自然の言葉を切った。首を傾げるわたしに抑えた声で「静かに」と言うと、兄は鋭い目で辺りを見回す。その両手が、痛いほどに強くわたしの肩を握った。
「お、お兄ちゃ」
「ディアナ。今すぐ広場に走って行け。絶対に振り返るな」
 押し殺したその声が、何か良からぬ事態が起きたのだと物語る。兄は私が何か言う前に、普段からは想像も出来ないような怖い顔で続けた。
「広場に着いたら、皆に急いで逃げるように言うんだ。……遠くの方から、武器の音が聞こえた。多分帝国軍だ、きっとすぐにこの村に来る。ほら、走れ!」
「っ」
 お兄ちゃんはどうするの、なんて聞けやしない。ぐいと背中を押されて、わたしは一目散に走り出した。
 神様、どうか、どうかみんなをお守りください。この村をお守りください。みんなわたしの、大切な家族なんです。お願い。
 誰も、奪っていかないで。

 ***

「おかえりなさい、クライド」
「……ああ。ただいま、ディー」
 帝国軍に僕たちの村が滅ぼされてから、六年。僕とディアナは、十六歳になっていた。
 あの日、彼女は逃げろと言ったが、大人たちはそれに従いはしなかった。先祖代々暮らしてきた村を、そう簡単に帝国の野蛮人どもに明け渡してたまるか、と。戦うことを選択した彼らは、けれど子供をそれに巻き込むことは避けたかったらしい。
 子供、即ち僕たち二人。……本当に、小さな村だったのだ。
 僕たちは地元の人間しか知らないような、獣道とも呼べない森の中を走って逃げた。今日か明日には村に来る予定だった行商人が、もう近くには来ているはずだから、彼らを見つけて共に逃げなさいと。小さな頃から遊び場にしている森だ、迷いはしなかったけれど、それでも繋いだ手を離すのは恐ろしかった。行商人たちを見つけて事情を説明してもそれは変わらなくて、馬車の中でも、休憩中も、ずっと手を離さなかった。
 孤児院にでも入れられるのだろうと思ったけれど、僕らのもたらした情報――帝国軍が攻めてきた、というそれは王国にとってとてもありがたいものだったらしい。とりあえず近くの大きな町に辿り着いてそれを告げた僕たちは、次の日には首都に連れて行かれて、有力な貴族に養われることになった。すぐに帝国との戦争が始まったのに、首都はいつまで経っても裕福で穏やかな暮らしのままで、誰もそれを疑問に思わないことが恐ろしかった。
 今だってそうだ。戦争はまだ終わっていないのに、それを危惧する人間は僕たちだけ。親しい人間が危険に晒されない限り、実感できないのかもしれないけれど。
「ディー、これ」
「何?」
 僕が差し出した封筒に、ディアナは恐る恐る手を伸ばす。嫌な予感でもするのか、それとも僕の表情から何かを察したのか。なかなか開けようとしない彼女を黙って待っていると、ディアナはようやく中の便箋を取り出した。その表情が、一瞬で凍りつく。
 神官になるため、僕と同じ学校に通っているディアナには、書かれている文字も難なく読み取れるはず。そこには、僕たちの村が滅びてしまった、確かな証拠があった。僕たち以外の住人全員が、あの村で発見されたこと。生者は一人としていなかったこと。六年前に僕たちの養い親が受け取って、今日やっと僕に渡してきたもの。
 彼女は何度も手紙を読み返すように、ゆっくりと視線を動かす。間違いだとどこかに書いていないかと、そんな必死さが見て取れた。やがて、ディアナは震える声で、俯いたままぽつりと漏らす。
「……クライドは」
「うん?」
「クライドは、いなくならないわよね?」
「もちろん。ディーがいなくならない限り、ね」
 ずきん、と痛む胸を無視して、笑って頷く。すると彼女はようやく顔を上げ、涙に濡れた顔で微笑んだ。
「なら、良いわ。神様だって、きっとお守りくださる。頑張ってお祈りするもの、わたし」
 僕からしてみれば、最早その信仰心は虚勢以外の何者でもなかった。だって彼女は、あの日も祈っていたはずなのだ。幼い頃から信心深かったディアナが、家族の無事を、村の無事を、祈らなかったはずがない。彼女が祈るという行為に縋って、ようやく自分を保てているのは、痛いほどよく分かっていた。だってあの日から、ディアナは消えてしまいそうなほど弱々しくて、折れてしまいそうなほどに儚くて、それでもずっと笑っているのだから。
 ……だから。こちらは決して渡すまいと、僕はもう一つの封筒をくしゃりと握りしめた。

 ***

「……嘘吐き」
 横たわる彼を、静かに詰る。普段ならそうすれば哀しそうに笑ってわたしを宥めようとするはずの彼は、けれどぴくりとも動かない。蒼白なんてものではないその顔色は、彼がもうこの世の人間ではないことを何よりも示していて、余計に悔しかった。
「約束したのに、いなくならないって言ったのに! クライドの嘘吐き!」
 約束させたのは私だ。病を患い、自分が長くは生きられないと分かっていた彼に、そうしないことを約束させたのは私だ。そんなことは分かっている。彼の部屋から見つかった、クライドの病について知らせる手紙は、約束を交わしたあの日に記されたものだったのだから。
「どうして……」
 祈っても祈っても、願いが叶うことはなかった。ねえ神様、だったらどうして、人に祈れと仰ったのですか。聞き入れることのない祈りを、なぜ。祈った日常は容易く奪われて、無事を祈った家族はみんな連れて行かれて、ずっと一緒にいたいと願ったクライドも失って、それならわたしはどうして、あなたを信じてきたのですか。
「見守るだけで、叶えてくれない、なんて」
 神殿に残された神話では、信じれば救われると、そう仰ったのは神様、あなた御自身なのに。その言葉を信じて、あなたを信じて、人は祈ってきたのに。奪われるばかりのわたしたちには、祈ることしか出来なかったのに。
 ……ああ。祈れば願いが叶うような、人の身で奇跡が起こせるような、そんな世界であれば良かったのに。
「っ、…………わたし、が」
 ずきん、と痛む頭。考えてはいけない。それは、神に背く行為だ。神官を志すわたしが、決してしてはいけないことだ。
 考えてはいけない? どうして? 救ってくださらない神に背くことが、どうしていけないの?
「わたしが、叶えれば……願いが、叶う世界を、わたしが」
 聴け。聴き入れろ。叶えろ。
 これが最後の祈りです、だから神様。

「わたしを――神にしなさい!」

 割れんばかりの頭痛の先に、言葉無き声を聴いた。それは次々に不吉な言葉を、わたしが迎えるであろう未来を告げる。
 与えられた制約。大きすぎて叶わない願い。人の身を外れて闇に堕ちた悪魔の存在。どんな願いでも叶えることしか出来ない、無力な女神。わたしが成ろうとしているのは、そんなモノでしかないのだと。
 けれど、それでもあの日、わたしは奇跡を願ったのだ。あの日の私のように、奇跡を願う人がいるはずなのだ。たった一度でいい、自分の手で何かを変える機会を、誰もが求めているはずなのだ。だから、わたしは。

 躊躇ったのは一瞬だった。傍に置いてあった果物ナイフを取り、思いきり自らの胸に突き立てる。溢れ出る血は、次の瞬間白い光に変わってわたしを包み込んだ。

 ***


 こうして少女はその生を終え、
 代わりに一柱の女神が誕生した。


 女神は世界に降り立ち、奇跡を授ける。
 人々は女神に感謝し、祈りをささげた。

 女神が望んだ小さな奇跡は、
 確かに人々が待ち望んだ、小さな奇跡だった。


 終わらない女神の奇跡。
 失われてしまった、始まりの奇跡。
 確かにあったはずの、奇跡の女神の物語。

2013/08/31
inserted by FC2 system