ある夏の暑い日、お兄さんがいなくなりました。
 それからしばらく経って、またわたしの嫌いな、お兄さんをさらっていった夏がやってきてしまいました。
 ほら、陽炎が、ゆらゆらと。

 小さなころから、夏は苦手でした。

 理由は、わたしにもよく分かりません。ただ暑いのが嫌いだっただけかもしれませんし、もしかしたら、ずっとずっと前にいなくなってしまった、お兄さんのこともあるのかもしれませんでした。わたしとまったく同じ顔をした、わたしの双子のお兄さんは、とてもとても暑かったあの日に突然いなくなってしまって、そうして戻ってこなかったのです。
 そう、わたしが夏を嫌いになったのは、あのときからなのかもしれません。自他ともに認めるお兄さんっ子、俗にいう「ぶらこん」さんだったわたしは、お兄さんがいなくなったときにはそれはそれは大泣きして、毎日のように探し回ったものでした。もっとも、小さなこどもがいくら探したところで見つかるわけもなく、あれ以来お兄さんのすがたを見た人はいないのですけれども。とにかく、わたしにとって夏とは、暑さとは、お兄さんを連れ去ってしまう、わるいものであったのです。
 あれから少しだけときが流れて、幼かったわたしは、可愛い少女に成長しました。大人に出会うたびに可愛くなったと言われるのですから、これはもう間違いないのでしょう。お兄さんがいなくならなければ、きっと同じくらいすてきに成長していたでしょうに、本当に残念です。
 ……そう、わたしは、いつもお兄さんのかげに隠れていたわたしは、今もお兄さんのかげに隠れたがっているのです。

 だから、かもしれません。
 こんなふしぎなところに、迷いこんでしまったのは。

「……他の人たちは、どこへ行ってしまったのでしょう」
 視界に映るのは、今まで歩いていたのとまったく同じ、広くも狭くもない道路です。しかし、たった今までたくさんいたはずの人は、一人残らずいなくなっていました。わたしはほんの一度、ほんの一瞬、まばたきをしただけなのに。
 それに、さっきまで感じていた暑さは、一体どこに行ってしまったのでしょうか? どこかひんやりとした、けれどまとわりつくような変な空気に、わたしは思わず身をふるわせました。……ここは、どこでしょう?
 陽炎、というものをご存知でしょうか。夏の、風が無くて暑い日なんかに、道路の上でゆらゆらしているあれです。夏にたくさん見られますが、実は春の『きご』というものらしいのです。わたしはたしか、歩いている途中であれに目をうばわれて、しっかりしようとまたたいた、はずでした。
 不意に、くすくす、と笑い声がきこえます。
「だ、だれかいるんですか?」
「くすくす、くすくす」
 本当にふしぎなことに、それはどうやら何もない空中から、それも色々な方向からきこえてきました。声の主を探してくるくると回るわたしに、笑い声はふりそそぎます。
「朝が、きたね」
「朝が、きたよ」
「ようこそ、朝の女の子」
「朝?」
 不可解なその言葉に、わたしは首を傾げました。今は、昼です。真昼です。だからあんなに暑かったのです。だから陽炎なんてものが見えたのです。それなのに、この声たちは何を言っているのでしょう?
「帰りたい?」
「帰りたいよね」
「夜を探せば、帰れるよ」
「夜に会えれば、帰れるよ」
「がんばってね、朝の女の子」
「ま、待ってください、ここは――」
 遠ざかる声に慌てて声をかけましたが、答えはありませんでした。わたしはためいきとともに肩を落とすと、きいたばかりの言葉を繰り返します。
「夜……って、何ですか?」
 よく分かりませんが、とにかく何かを探せば元の場所に帰れる、むしろ探さなければ帰れない、というのはよく理解しました。ということは、ここでじっとしていてはいけませんね。見知らぬ場所への恐怖や警戒はありましたが、そっと一歩、足を踏み出します。後は、それを繰り返せばいいだけの話でした。
 ゆっくりと歩きながら、そういえば、と思い出します。お兄さんは、夜がとても好きでした。夜の、耳をすませば聞こえてくる静かなざわめきが好きなのだ、と言っていました。落ち着くから、と。逆にわたしは朝の、明るく燃え始める空が好きで、双子なのに真逆だね、とお兄さんは笑いましたっけ。
 それにしても、見慣れた街に誰もいない、というのは存外に恐ろしいものです。普段は人の声が絶えないのに、声はおろか車の音すら、いいえ鳥のさえずりすらきこえてこないのです。しかも真夏ですから、着ているのは半そでの、うすい服。肌寒さすら覚えながら、おそるおそる足を進めるわたしに、突然声をかけてきた人がいました。
「珍しいね、お客さんかい?」
「……はい、多分。あの、あなたは?」
 いいえ、人ではありません。足元からきこえてきた声に視線を下ろすと、真っ黒い猫がそこにいました。
「わしはヘリ。いつだって昨日にいる、ここの番人さ」
 ふしぎな言い回しに、わたしは首を傾げます。けれどたずねても答えてはくれなさそうで、代わりに私は別の質問をしました。
「でしたら、ここから出る方法を知っていますか?」
「ああ、知っているとも。ここのことなら、ヘリは何だって知っているよ、マーネ。朝のお嬢さん」
「……どうして、わたしの名前を?」
「言っただろう、知っていると」
 くっくっく、と、ヘリさんは笑い声をもらしました。
「帰りたいのかい、お嬢さん。そうだな、帰った方が良い。君は、ここに来るべきじゃないからね」
「なら、どうすれば……」
「君に、よく似た子を知っているよ」
 ふしぎな光を宿した瞳が、そっとわたしを見上げます。首を傾げるわたしに、ヘリさんは淡々と続けました。
「君とよく似た顔立ちの、君とよく似た声の、君とよく似た雰囲気の、幼かった夜の子だ。来るべくしてここに堕ちてきた、ゆえに全てを失った、哀れな夜の少年だ」
「っ! それは――」
 よく似た顔立ちの、少年。それは、お兄さんではないのでしょうか。兄は、あの日行方をくらましたわたしのお兄さんは、ここにいるのですか? そう訊ねようとしたわたしをさえぎって、ヘリさんは言葉を続けます。
「夜を探しなさい、マーネ。そうすれば、君は帰れるよ」
「ヘリさん、っ!」
 不意に、突風が吹き荒れました。
 それはわたしの背を押すように、さっきまで歩いていた、その先へと……
「ノックスも一緒に連れて行っておやり、と言えたら良かったんだがね。お嬢さんには悪いが、それはわしにも出来ないことだな。こればっかりは、受け入れるより他に無い」
「ま、待っ――」
 気付けば風にのまれるように、ヘリさんの姿は段々とうすくなっていました。反射的に伸ばした手からするりと抜けて、ヘリさんはゆらりとしっぽを揺らします。
「分かったならお急ぎ、朝のお嬢さん。君はこの場所にとって異端だ、異分子だ。早くしなければ、わしも、彼も、お嬢さんも、みんな消えてなくなってしまうよ」
「っ」
 ヘリさんの言葉に、わたしは慌てて駆け出しました。ふしぎなものです、さっきまで何をすればいいかも分からなかったのに、今のわたしにはどこに行けばいいかはっきりと分かるのです。
 やがて、辿り着いたのは小さな丘の頂上でした。少し離れたところに、この場所に来て初めての人影を見つけます。わたしに背を向けて立つ、わたしと同じくらいの背丈の彼は、きっと。
「……お兄さん?」
「マーネ!」
 おそるおそる声をかけると、お兄さんは振り返りました。その顔に浮かぶやわらかな微笑みも、優しい声も、記憶の中にある通りです。なつかしくて、嬉しくて、じわりと涙がにじみました。
「相変わらず、泣き虫だね」
 お兄さんはゆっくりとした足取りでわたしに近づくと、そっとわたしの頭をなでてくれます。
「会いたかったです、お兄さん、わたし、ずっと会いたかったんです」
「ああ、ぼくもだよ」
「ずっと、さびしかったんです」
「……ああ。ぼくも、寂しかったよ」
 ふとうつむいて悔いるように苦笑いすると、お兄さんは顔を上げて、わたしをまっすぐに見つめました。
「ヘリに、話をきいたんだね。ごめんマーネ、驚いただろう? 突然こんなところに来て」
「じゃあ、これは……お兄さんが?」
「そうだよ」
「お兄さんが、皆さんが言っていた『夜』なんですか?」
「うん」
 たん、と踊るような足取りで一歩わたしから離れると、お兄さんは両手を広げ、空を仰ぎます。ぶわっ、と風が吹きました。
「陽炎を、見ただろう?」
「陽炎……ですか?」
 確かに見ました。このふしぎな場所に来る直前、道路の上でゆらゆらと揺らめく陽炎を。お兄さんの問いに頷くと、お兄さんはにこりと微笑みました。
「ここはね、裏側の世界なんだ。マーネ、君が暮らしている、かつて僕が暮らしていた世界と、対になる場所。あの日、ぼくは陽炎に導かれて、こちら側へ堕とされたんだよ」
「裏側? ……どうして、お兄さんが?」
「朝と夜は、同じ場所にはいられないから」
 その声は、どこか哀しげに響きました。
「マーネは朝で、ノックスは夜だ。だから、どちらかがこの場所に来なきゃいけなかったんだよ。二人で一緒には、いられなかったんだ」
「……わたしの、せい、ですか?」
「違う!」
 絞り出すように呟くと、お兄さんは慌てたように首を振りました。
「違う、マーネのせいじゃない。この世界は、そうやって成り立ってるんだ。対になるものは片方がこっちに堕とされて、それでバランスを保ってる。例えばヘリだってそうだよ、彼は『昨日』だけど、向こう側には彼の片割れの『明日』が残されているはずだ。彼も僕と同じように、大切な片割れを遺してこっちに堕ちてきた。ここにいるのは、みんなそうなんだ」
 だから本当は、マーネもこちらに来てはいけなかったんだよ。そう、お兄さんは呟きました。だけど、それならなぜわたしは、ここにいるのでしょう? わたしが首を傾げたのを見て、お兄さんは苦しそうに言います。
「マーネが寂しがっているのは、知っていたよ。ずっと見てた。ぼくも、寂しかった。だから……ごめんね。マーネがここに来たのは、ぼくのせいなんだ」
「お兄さんが?」
「会いたいと、願ってしまったから。後は陽炎が、世界を繋いでくれた。だから、マーネに会えた」
 本当に嬉しそうに、お兄さんはわたしを撫でます。小さい頃のように優しい、少しだけ大きくなった手で。
「可愛くなったね、マーネ。それに、強くなった」
「お兄さんも……すてきに、なりました」
「ありがとう」
 にこり、と微笑んで、お兄さんは手を離します。ずっと吹いていた風が、その強さを増しました。
「そろそろ、時間みたいだね。……マーネを、返さないと。この世界が、壊れてしまう」
「もう会えないのですか?」
 やっと会えたのに、またさびしい日々が続くのでしょうか。慌ててお兄さんにしがみつくと、お兄さんは苦笑して、その手をそっと離しました。
「いつか……ぼくらがまた、もう少し大きくなったら」
「本当に?」
「ああ、約束する」
 そっと絡まった小指に、わたしは笑みを浮かべます。永遠の別れじゃないのなら、大丈夫。辛いけど、寂しいけれど、耐えてみせます。強くなった、とお兄さんにもお墨付きをいただきましたから。
 立っていられないほどに強く吹き付ける風が、別れを知らせてきました。
「では……お元気で、お兄さん」
「マーネも。……またね」
「はい、また」
 風にかき消されないように、声を張り上げます。 けれど瞬く間にびゅうびゅうという音に埋め尽くされて、わたしは思わず目を閉じました。



「……っ」
 ざわざわ、というききなれた喧噪に、わたしはハッと我に返ります。辺りを見回せば普段通りの、そこそこに人のいる商店街でした。さっきまでの肌寒さは消え失せて、嫌になるような暑さが戻ってきています。人はともかく、暑さが戻ってくるのはなかなか嫌なものですね? お兄さんには会えても、やっぱり夏は嫌いです。
「お兄さんは……」
 きょろきょろと探したところで、いないのはわたしが一番よく分かっています。一瞬夢だったのかと思いましたけれど、今の出来事が白昼夢なんかではなかったことをしめすように、なーお、と足元で白い猫が鳴きました。
「あら、あなた……もしかして、ヘリさんの?」
 なーお、と猫は答えます。どこか猫らしくないその目は、確かに見覚えがありました。
「やっぱり。……では、一緒に待ちましょうね」
 おたがいの、大切な人を。わたしはそっと屈みこみ、そう呟きながら猫をなでます。
 ふと顔を上げると、揺らめいていたはずの陽炎は、跡形もなく消えていました。

2013/07/26
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