その子供たちは異質な病に侵されていた。過去の人間が遺した罪を背負い、異形となって死にゆくだけの残酷な病に犯されていた。
 故にひとところに集められ、最期まで穏やかな日々を送ることを保障されていた。
 蔦に記憶を蝕まれる少年は、病院と呼ばれるその場所で、一人の少女に出会うが……。

 突然、しかし僕に衝撃を与えないよう静かに、馬車は進むのをやめた。首を傾げる僕に見せるためだろう、隣に座っている男性が手を伸ばして、窓にかかっている布をそっと持ち上げる。覗いてみれば、月光に照らされて夜闇の中に白く浮かぶ、大きな建物がそびえ立っていた。僕が目を見開いたのが分かったのか、男性は笑いながら声をかけてくる。
「大きいだろう。驚いたかい?」
「……はい」
 返した言葉はいつも通りの起伏に乏しいもので、だからこの驚きがそのまま彼に伝わったのかは分からない。けれど男性の面白そうな表情を見ると、どうやら杞憂のようだった。
「君の国には、こういった建物は無かったかな」
「敷地が広い家はたくさんありました。でも、こんなに高い建物は見たことがありません」
 そもそも、考えを巡らせてみても、僕が知る故郷の風景は広いけれど殺風景なあの部屋だけである。それと異国の文化を結びつけることは、僕には難しかった。
 そこで、ふと視界の端にあるものを見つけ、僕は声を上げる。
「あの、塀が……」
 立派な建物をぐるりと取り囲む、高い壁。まるで檻のようなそれに視線をやり、男性は苦々しく顔をしかめた。
「あれか……不快かもしれないけれど、気にしないでほしい。国にしつこく言われていてね。ここにいる子たちは基本的に精神的な疾患は無いと、何度も言っているのに。確かに病が進行すると心に異常をきたしてしまう子もいるが、何もあそこまですることは――」
「いいえ、平気です。僕がいた部屋にも、鉄格子はありましたから。一緒です」
 全てが生まれ育った国とは違うこの地で、それだけが唯一似通っていて、むしろ見つけた瞬間安心してしまったのだ。やはり『僕たち』はそういう扱いなのだ、と。そう言うと、男性は何故かどこか痛ましそうに表情を歪める。けれどそれも一瞬のことで、彼はすぐに元の表情に戻ると、頷いた。
「そうか、それなら良かった。君が安心して暮らせるように、私たちも精一杯尽力するつもりだからね。異国の地で不安なことも多いだろう、何かあったら遠慮なく言ってくれ」
「え? あ、あの……いえ、はい」
 一瞬、何を言われているのか理解出来ず、思わず固まってしまう。慌てて頷いたものの、その真意は分からないままだった。今までと同じように生活だけを保障されて、後はいないものとして扱われるのだろうと、そう思っていたのに。
 僕のそんな事情を知っているからだろう、男性は柔らかく微笑み、立ち上がる。狭い馬車の中だから当然屈むように背を丸めて、彼は手慣れた様子で僕を抱き上げると、そのまま馬車を降りた。……って、待って、え?
「あ、あの、僕、一人で歩けますっ」
 受けたことのない扱いに、僕は顔を赤らめる。そんなことも出来ないのだ、とは思われたくなくて抗議するが、男性はそんな言葉は聞こえないかのように素知らぬ顔で、建物に向かって歩き出した。どうしようかと口をぱくぱくさせていると、諭すような優しい声が聞こえた。
「長く馬車に揺られていたんだ、君が思っているよりずっと疲れているはずだよ。それに、歩くのが辛くないわけじゃないんだろう? 大人には甘えるものだ」
「……あまえ、る?」
「そう。大人に甘え、友を信じ、みんなを頼ることを覚えなさい。ここは、君たちがそう出来るように作られたのだからね。……とはいえもう夜も遅いから、みんな寝ているかな。まずは部屋に案内しよう」
 言いながら彼は建物の中に入り、入り口近くに置かれていた可動式の椅子に僕を座らせる。本では読んだことがあったが、実際に見るのは初めてだった。
「君の体格では少し座り心地が悪いかな。君用に作らせたものも明日には届くから、次からはそれを使ってくれ」
「いえ、違うんです。その、どうしてここまでしてくれるのかな、って……」
「どうして、って?」
 椅子を押して再び歩き出しながら、彼は考え込む。訊いてはいけないことだったのか、と焦っていると、男性は不意に立ち止まった。
「そうだなぁ……私たちのような職員は、君たちの面倒を見るのが楽しいからやっているんだけど。国がこの施設を作ったのは、君たちへの罪滅ぼしのつもりなのかもしれないね」
 独り言のように呟き、彼は壁に手を伸ばす。見れば足元には魔法陣らしきものが書かれていて、彼が壁にいくつかあるでっぱりの一つを押すと輝き、視界を包んだ。
 ぐい、と内臓を引っ張られるような感覚。気付けば、目の前の景色が変わっていた。外と同じように白が基調なのは、さっきまでと変わらないけれど。
「あれ、……え?」
「気持ち悪くなったりはしていないかい? これの使い方も後で教えよう。……さて、着いたよ。ここが君の部屋だ。三階の一番奥」
 男性は立ち止まって扉を開け、椅子を押して中に入る。窓から差し込む月光に照らされて、白い寝台が浮かび上がっていた。それだけじゃなく、室内には小さな机や衣装箱もあるし、寝台の上には綺麗に畳まれた寝間着が置かれている。彼は再び僕を抱き上げて寝台に座らせると、寝間着を取って手渡してきた。
「一人で着替えられるね? 今日は疲れただろう、案内も明日にするから、着替えて寝てしまうといい」
「は、はい。あの……ありがとう、ございます」
 正直に言ってしまえば、まだ信じられなかった。この男性と出会ってからの出来事はあっという間で、まるで夢のようで、だからこれが本当に『夢』である可能性を、ついさっきまで僕は捨てきれていなかったのだ。眠ったら、目覚めてしまうのではないか。目覚めたらまたあの寂しい部屋にいて、夢の終わりに落胆するだけなのではないか。そう思って、馬車の中でも眠れなかった。だから彼の言う通り体は疲れ切っていて、けれどこれだけは言っておきたかった。
 僕の言葉に、彼は楽しそうに笑う。
「いえいえ、どういたしまして。それじゃ、ゆっくりお休み」
 ぱたん、と静かな音を立てて、扉が閉まる。ぼんやり遠ざかっていく足音を聴き、それが聴こえなくなったところで我に返った。渡された寝間着はこちらの国のものなのだろう、僕にとっては見慣れない作りだったが、着るのに複雑な手順は必要ないようだ。上下が別れていることに戸惑いつつ、それでも思ったよりすんなりと着替え終えて、僕は再び寝台に腰掛け、嘆息する。
「……どうなるんだろう、僕」
「どうにもならないわよ」
「っ」
 不意に背後から聞こえた声に、僕は勢いよく振り返った。大声を上げなかっただけ頑張った方だろう。
 そこに立っていたのは僕と同じ、十代前半くらいに見える少女だった。緩く波打った薄い金髪に、活発そうな青い瞳。故郷では見たことのない明るい色彩だったけれど、一際目を引くのが、四肢を覆うように巻かれた包帯だった。
 こんばんは、と少女は笑う。僕はただ、呆然と彼女を見上げる。
 ……何故だろう。華奢なその少女が、僕にはとても恐ろしく見えたのだ。

◆◇◆

 昔、この辺りの国は戦争をしていて、たくさんの人が死んだらしい。これではいつまで経っても戦いは終わらない、と察したこの国は、栄えていた魔法の技術を片っ端からつぎ込んで、あるものを作り出した。
 魔人。本来人間が外から取り込むしか出来ない魔力を、内側に持って生まれた人間。その力は並みの魔法使いの比ではなく、彼らのおかげで戦争はあっという間に終わって、めでたしめでたし……なら、良かった。確かに彼らは強かったけれど、戦争が終わってしばらくして、ある魔人と魔人が子をなしたとき、問題は起こったのだ。
 魔人同士の子だから、更に強い魔人が生まれるだろう。誰もがそう考えた。けれど生まれた子には、強い魔力こそ備わっていたけれど、それを使うことは出来なかったのだ。魔力は、奇病として彼らの体に現れた。
 例えば、成長と共に肌が魚の鱗に変わってしまったり。目から花が咲いたり、感情によって髪や目の色が変わったり。病の進行はやがて心にも影響し、日常生活など送れなくなる。そうして、体内の魔力に耐えきれず、二十歳前後で短い生を終えるのだ。それは魔人同士の実子などといった狭い範囲に留まらず、今では少しでも魔人の血を引いていれば生まれる可能性があるという。
 そうした子供たちが迫害されるようになったところで、国はようやく、とんでもないことをしでかしたと気付いたらしい。子供たちを一か所に集め、その人生を見守り始めた。それが、この施設……この奇病の研究もしているから、わたしたちは『病院』と呼んでいる。
「貴方の場合は多分、戦争の直後に異国に渡って、そのまま連絡が途絶えた魔人の子孫なのね。家の守り神なんて言われて、ずっと閉じ込められてたんですって? 大変だったのね」
「……どうして」
「わたしは何でも知ってるの」
 黒曜石のような目を見開く少年に、わたしはそう微笑みかけた。けれどその瞳は僅かに怯えるような色を帯びて、すっと逸らされる。ようやく口をきいてくれるようにはなったけれど、目を合わせるのはまだ彼には難しいらしい。
「大変だとは思わなかったよ、それが当たり前だったから。でも、ずっと一人だった。大人はたまに会っていたから、まだ大丈夫なんだけど……」
「子供は怖い? 変なの、自分も子供なのにね」
「うん」
 わたしの言葉に、彼は素直に頷く。瞳と同じ色の黒い髪が、さらさらと揺れた。
「僕もびっくりした。君と会ったときは夜だったし、いきなりだったからかな、って思ったんだ。でも朝になって、みんなに紹介されたとき、怖くて何も考えられなくなった。仲良くなりたいとは思うんだけど、でも……」
「それはまぁ、少しずつ慣れていくしかないわよね。ほら、わたしと喋れてるわけだし」
 明るく言ってみても、重い沈黙が返ってくる。まるで言葉の代わりのように、彼の顔の右半分から肩にかけてを覆う蔦がざわりと揺れた。少年は小さく息を呑むと、片手で蔦を抑えつける。
 右目から伸びる蔦、それが彼の患った病だった。感情が高ぶると進行するというそれは、体の自由と同時に彼の記憶まで蝕んでしまうらしい。だから両親のことは何も覚えていないのだと、少年は教えてくれた。彼があまり感情をあらわにしないのは、そういった事情もあるからだろう。『忘れる』ことを、彼は極端に恐れているようだった。
「そういえば、訊きたいことがあったんだ」
 やがて彼は顔を上げ、話を逸らすように呟く。黙って続きを促すと、少年は少しだけ躊躇うように黙り込み、けれどすぐに言葉を続けた。
「君は、四階の人なの?」
「……どうして、そう思うの?」
「食事のときに、見たことがないから。あまり部屋から出ない人が多いのは三階と四階だけど、君は普通に動き回っているから、三階ではないのかなって」
「鋭いのね。来てそんなに経ってないのに」
 この施設は、病状によって住む階が分けられている。一階には職員の部屋と、食堂や浴場。二階は団欒用の広間と、動くのにまったく支障が無くて、病状も軽い子供の部屋。三階はこの少年のようにあまり動かない方がいい子や、殆ど動けない子供たち。そして四階が、病気が進行して心にまで異変が起きてしまった……言ってしまえば後は死を待つだけの末期患者。
 どこか言いにくそうな少年に対し、わたしは笑ってみせる。彼の推測は正しいけれど、わたしの場合はちょっと事情があるのだ。出来ることなら彼にはあまり知られたくなかったけれど、……でも、そろそろ潮時だろう。わたしとばかりいるのは、良くない。
「内緒よ、教えてあげない。知りたかったらみんなに訊いてみると良いわ」
「それは」
「大丈夫よ、みんな優しいから。……まぁ、今すぐにとは誰も言わないわよ。どうしても知りたいなら、頑張って」
 頑張らなくていい。訊かなくていい。何も知らないままでいて。
 そんな本音は、笑顔で塗り潰した。

◆◇◆

「っ、あ、……あー」
 やらかした、と思った。食事の時間は大まかには決まっているけれど、全員揃って食べなければいけないという決まりはない。だから、自分が同年代の人間が苦手なのだと分かってからは、食堂には早めに来て、みんなが来ないうちにさっさと食べて部屋に戻るのが僕の日常だった。けれど今日はちょっと色々あって、来るのが遅くなってしまったのだ。入り口から覗き込めば見慣れた、けれど怖いことに変わりはない仲間が、和気藹々と食事を摂っていた。
 ここでは一日に三食だが、故郷では一日二食で、しかも量もずっと少なかった。だから一食くらい抜いたところで平気なのだけれど、それをやると『先生』たちに怒られるのだ。せめて院長先生……僕をここに連れてきた、現時点では唯一気を許せる相手がいないかと見回してみたものの、そもそも忙しい彼が姿を現すこと自体が珍しい。
「どうしたんだ?」
 不意に背後から聞こえた声に僕はびくっと肩を震わせ、恐る恐る振り返った。額から長めの角が生えた人の良さそうな少年が、首を傾げてこっちを見ている。……当然、彼も見知らぬ相手ではない。確か僕より何歳か年上で、ここでは年長に分類される、ゆえにみんなに慕われている人だ。僕があまり馴染めていないのを知っていて、色々気にかけてくれる、優しい人。彼は歩いてくると、僕越しに部屋の中を覗き込む。
「あー、混んでるな。せっかくだから一緒に食べるか」
「え、あ……いや、僕は」
「食いそびれたら先生たちに怒られるぞー」
 僕の座った椅子を押し、彼は容赦なく部屋に入って、奥の方へと向かう。ちょうど二つ空いていた椅子の片方を脇に退け、僕をそこに落ち着けると、周りから何故か歓声が沸き起こった。
「凄いお兄ちゃん! 遅いと思ったら、まさかこの子連れてくるなんて!」
「何食べる? 好きな食べ物とかある? 細いんだから、たくさん食べないと!」
「う、あ……あの」
「喋ったー!」
 ざわざわと右目から伸びる蔦を必死に抑え、助けを求めるように辺りを見ると、斜め向かいに座る年長組の少女と目が合う。背中から蝶の羽が生えた彼女はふわりと微笑みと、「こらこら」と周りの人たちをたしなめた。
「気持ちは分かるけど、怖がってるでしょ? ごめんねー、うるさくて。あ、これ食べる?」
「……食べ、ます」
 奇しくも彼女が差し出してきたのは、数少ない好物の一つだった。恐る恐る手を伸ばして受け取れば、彼女は満足そうに頷く。
「あまり姿を見せないから、みんな心配してたんだよ。遠い国から来たから体調崩したりしてないかな、とかね。うん、もうちょっと食べた方が良いとは思うけど、元気そうで良かった」
「ご、ごめんなさい」
「ううん、君の事情も院長先生から聴いてるから」
「そうだ、分かんないこととか無いのか? 何かあったら何でも訊いてくれよ」
 角の少年の問いに、僕はあの少女のことを思い出した。そうだ、彼女は確か、みんなに訊けと言っていたはず。
「それじゃ、あの……四階に、包帯の女の子っていますか? 金髪に青い目で、ちょっと強気な感じの」
「女の子?」
 二人は顔を見合わせ、眉をひそめる。ひそひそと何か話し合った後、彼らは難しい顔で僕を見た。
「そういう子は四階にはいないけど、心当たりはあるよ」
「ああ。そいつは多分、『黒い痣のお姫様』だな」
「……お姫様?」
「あだ名だよ。十年くらい前かな、ここにそういう子がいたの。君が言った通りの、可愛い女の子。黒い痣が徐々に体を覆っていく病気だったんだけど、痣に覆い尽くされる前に事故で亡くなったんだ。私たちは小さかったからよく覚えていないんだけど、うん、優しい人だった」
 その言葉に、すっと心が冷える。亡くなった? でも、彼女は。
「その後から、新しく入ってくる奴らの中に何人か、金髪の女の子を見たんだって言うのがいてさぁ。なんでも、分からないことを教えてもらったり、困ったときに助けてもらったりしたらしい。……ってことは、お前も会ったんだな」
 頷くことは、出来なかった。だってそれは、それじゃ、認めるみたいじゃないか。彼女が、そうなのだと。
「僕、は――」
 何を言うかも分からないまま、呟く。早く部屋に戻って彼女に会いたかった。けれど心のどこかで、会うのを恐れた。

◆◇◆
「ちゃんと話せたじゃない! 大丈夫、これならすぐに仲良くなれるわよ」
 部屋に戻ると、彼女はいつも通りの笑顔で僕を出迎えた。そんな少女と目を合わせないまま、僕はぽつりと呟く。
「うん、話せたよ。君のことも訊いた。その、本当なの? 君が……」
「幽霊だって? うん、本当よ」
 予想に反し、彼女はあっさり頷いた。ずきん、と胸が軋むように痛む。そんな僕を見て何を思ったのか、少女は申し訳なさそうに笑った。
「ごめんね、騙してたみたいで。でも、一応言っておくと悪気は――」
「他の人たちの前に現れなくなったのは、どうして?」
 彼女の言葉を遮るように、質問を重ねる。返ってきたのはどこか仕方なさそうな微笑みで、実際彼女は「仕方ないじゃない」と肩を竦めた。
「幽霊よ、ずっと前に死んだ人間よ。いくら助けてもらったとはいえ、そんなのが近くでうろついてたら、みんな怖いみたい。そりゃそうよね。わたしも仲良くなった人に怖がられるなんて嫌だし」
「じゃあ、僕は怖くないっていったら?」
 考える間もなく、口からそんな言葉が漏れる。「え」と驚いたように顔を上げる彼女に、僕は勢いのまま続けた。
「正体がばれたから、とかじゃないんでしょ。幽霊でも何でもいいよ、傍にいてほしいって言ったら、他の人たちのときみたいにいきなり現れなくなったりしない?」
「……何で、怖くないの?」
「何で怖がるの?」
 きょとん、と二人で顔を見合わせる。やがて耐え切れなくなったかのように、少女が吹き出した。
「ふっ、あははっ、やっぱり面白いわ貴方! 向こうの国の人ってみんなそうなのかしら、それとも貴方だけ?」
「向こうにも幽霊が怖いって常識はあったみたいだけど」
「なら貴方が特別なのね、最高! やっぱり楽しいわ!」
「じゃあ――」
「でも、ごめんね」
 ぴたりと笑うのをやめ、彼女は見たことがないほど真面目な顔で僕を見る。目を合わせても怖くなくなったのは、つい最近のことだった。けれどそれは普段の彼女の話で、僕はこんな目は知らない。澄んだ深い青はそのままに、けれどどこか哀しげな色を携えた、こんな瞳は。
「傍には、いられない。いきなり現れなくなったりはしないけど、ずっと一緒にはいられないわ」
「……なんで」
「時間が無いの。ねえ、どうしてさっき、わたしが貴方を引きとめたんだと思う? そんなことしたら食事に行くのが遅くなるって分かっていて、どうして?」
「……い、やだ」
「頑張ったのよ。でも、もう限界みたい。自分で分かるの。ほら」
 彼女は僕に見えるように、自らの手を光に透かしてみせる。その端の方からきらきらと、宙に溶けていく光の粒。いや、よく見ればいつの間にか、その体自体が透けていた。
「やだ、嫌だ嫌だ! なんで……ねえ、一緒にいてよ、なんで君まで、僕を置いて行かないでよ、いなくならないで!」
「ごめんね」
 椅子から転がり落ちるように床に降り、縋りついた僕の頭を、彼女は優しく撫でる。……ああ、こうして触れるのに、確かにここにいるのに、どうして。
「……僕を、一人にするの?」
「一人じゃないわ。みんな優しかったでしょ? 大丈夫よ」
 だから、と彼女は微笑む。その体はもう今にも溶けて消えてしまいそうに揺らいで、その微笑すら目を凝らさなければ見えなかった。
「笑っていて」
 音も無く、ふっと少女の姿が掻き消える。たった今まで頭にあった優しい感触も無くなって、ただ宙を漂う小さな光だけが、彼女が今までそこにいたことを示していた。けれどそれすら、すぐに溶けて消えてしまう。
「っ、……え?」
 笑っていて、と彼女は言った。けれどきっと、彼女が最後に見たのは目を見開いた僕の姿で、そもそも考えてみれば笑ったことなんて一度もない。彼女はもういないのに、笑えるわけもなかった。
「……あ」
 駄目だ、認めた。認めてしまった。彼女がもういないのだと、僕自身が認めてしまった。
 無意識のうちに、左目からはぼろぼろと涙が零れていた。同時に、右目からは蔦が伸びる。零れる前の涙を吸って、僕の感情が昂ぶるのを知って、全て塗り潰そうと手を伸ばす。
「あ、あ……やだ、忘れたくない」
 忘れたらもう、思い出せないのに。
 だから、いなくならないでと言ったのだ。両親のときもそうだったと聴いた。彼らがこの世から去った後で何もかも忘れてしまったから、もう何も思い出せなくなってしまった。相手が生きていれば、たとえ忘れても、何度だって記憶に刻み付けられる。けれど、いない人のことを忘れてしまったら、それきりだ。もう二度と思い出せない。彼女のことを忘れたら、僕はもうその存在すら思い出せなくなるだろう。
「待って、待ってよ……嫌だ、消さないで」
 急激に病気が進行しているのは、自分でも分かっていた。慌てて感情を殺そうとしても、涙は止まらない。蔦は止まらない。
 記憶が、白くなっていく。

「嫌だああああああああああああああああああああああ!」

 ざわり、と。
 一際大きな音を立てて、蔦が体の右半分を呑み込んだ。

◆◇◆

「元気そうだね。私のことは、覚えているかな?」
「はい、院長先生」
 一目見た瞬間、何よりも先に恐怖が襲ってきた。けれど俺が逃げようとするよりも早く、彼はこっちを向いてしまう。
「君は……新しい子、かな?」
「おや、昨日話したことも覚えているのかい? 今日は本当に調子が良いんだね」
 どこか自信無さげな言葉に、院長先生が頷いてみせる。けれど続く言葉は確かに異様なもので、それについて訊ねる前に、目の前に病的に白い左手が差し出された。
「こんな格好でごめんね、初めまして」
「……は、初め、まして」
 恐る恐る握り返したものの、その手は驚くほどに力無く、まるで人形の手を握ったようだった。そんな俺たちを見て、院長先生が懐かしそうに呟く。
「君がここに来たのは、ちょうどこれくらいの頃だったね」
「え?」
「……いや、何でもないよ」
 初耳だとでも言いたげにきょとんとする青年の頭を撫で、彼は複雑そうに微笑むと、俺の方に向き直った。
「さて、下に戻ろうか。他の子たちにも挨拶しなければ。また後で来るよ」
「はい」
 部屋を出て数歩歩いたところで、俺は今見た光景について訊ねようと口を開く。けれど言葉を発したのは、院長先生の方が先だった。
「あの子は、ここの最年長だよ。言ってしまえば、君たちのお兄さんだ。……ああなってから、もう十年になるかな」
「十……年?」
 彼は、異質だった。
 右目から伸びた蔦に右半身は覆われていて、殆ど動かせないようだったが、それはまだいい。ここにいる子供たちは、みんな似たような病を患っていると聞くから。けれどその顔に浮かぶ穏やかな微笑が恐ろしくて、そして不気味だった。表情自体は大人びたものなのに、黒い瞳はどこまでも無垢に、まるで子供のように澄んでいるのだ。
「彼は見ての通り、右目から伸びた蔦に全身が覆われてしまう病でね。感情が昂ぶると進行して、体の自由と同時に記憶まで失くしてしまう。十年前にここに来たとき、あの子は全く笑わない子だったんだ。けれど、当時はまだ蔦は顔の右半分と右肩くらいしか覆っていなくて、少し無理をすれば歩き回ることも出来た。それがある日、突然ああなってしまったんだよ」
「何が……あったんですか」
 震える問いに、彼はしかし「分からない」と首を振る。
「何かが、あったんだろうね。発見されたときにはもうあの子はあの状態で倒れていて、目が覚めると同時にああやって微笑んだ。けれどそのときにはもう、彼は何も覚えていなかったんだ。だから、当時何があったのかは、もう誰にも分からない。唯一それを知る彼が、全て忘れてしまったから」
 やっと少し心を開いてくれたところだったんだけどね、と彼は哀しそうに呟いた。
「それ以来、あの子は自分の記憶を保てなくなってしまったんだ。自分のことも、他人のことも。今日は調子が良いようだったが、酷いときには会った数分後には忘れてしまう。毎日会いに来ている私でも、三日覚えていてくれればいい方だ。自分が忘れたという事実すら忘れてしまう。……あんなに、忘れることを恐れていたのに」
 十年。それは、ここの院長を務める彼にとっては、かなり長い時間だろう。多くの子供が二十歳を待たずにこの世を去るのだから。彼にとって、あの青年は特別なのだ。さっき感じた恐怖は少しも薄れてはいなかったけれど、だからといってあの青年を怖がることは出来ない気がした。
「あの、もう一つ良いですか? ……俺もいつか、ああなるんですか」
 彼は確かに特殊だが、彼だけが特別なのではない。この四階に住むのは、病気が心まで侵食して、後は死を待つばかりの末期患者だと聴いた。つまり、この病院に住む人間はみんな、いつかこの階にやってくるということなのだろう。病によっては彼のように、自分を失って。
 俺の問いに、院長先生は難しい顔で考え込む。答えにくい質問だというのは自覚していたが、訊かずにはいられなかった。やがて彼は顔を上げ、真っ直ぐに俺を見据える。
「君は、病気が進行すると感情が無くなっていくんだったね」
「はい」
「なら、誤魔化さない方が良いだろう。あの子のようにはならないよ。けれどいつか、君も君ではなくなるときが来る。あの子や君のような、心への影響が大きい病を患ってしまった子供にとって、それは避けようのない事実だ。私たちには病気の進行を少し遅くすることと、君たちが息を引き取るまで守ることしか出来ない」
「……はい」
 唇を噛む俺の肩に、院長先生はそっと手を乗せた。顔を上げると彼は微笑み、「だけどね」と続ける。
「確かに君たちはいつか、全て忘れてしまうのかもしれない。だからこそ今を笑って生きてほしいと、私たちは思っているんだよ」
「今を……」
「そう。……思えば、あのときからぱったり現れなくなったお姫様も、似たようなことを考えていたのかもしれないね。幸せだと感じた記憶が、少しでも君たちの中に残ってくれるように」
「お姫様?」
 俺の問いに答えず、彼は青年がいる部屋の方向を振り返った。俺も釣られてそっちに目をやり、院長先生の言葉の意味を考える。
 いつか、俺は俺じゃなくなる。けれど、全て失うわけではないのかもしれない。あの青年が、今も微笑んでいるように。全て忘れたというのなら、笑う意味すら忘れるはずなのに。彼がまともだった頃にあった『何か』がそうさせているのだとしたら……だったらまぁ、俺だって幸せになる努力くらいしてやるかと、そっと拳を握る。
 院長先生が俺をあの青年に会わせた理由が、何となく分かった気がした。

2013/08/31
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