ふと振り返れば、眼下には白い墓石がいくつも並んでいた。
 小さな丘を登り切って少し歩いたところで、私は足を止める。木の陰に隠すように、膝の高さに届くか届かないかという大きさの黒い石が置かれていた。その前に膝をついて、抱えていた百合の花束をそっと下ろす。両親はこの白い花がとても好きだった。もっとも、父の故郷では死者に手向ける花でもあるのだと苦笑交じりに語っていたけれど。
 この国では、死者は王家が管理する共同墓地に眠る。あの白い石は高価ではないが平民には手に入らないもので、故人が確かにこの国の民であったと、王が認めた証なのだという。罪人として処刑された人間には墓石は与えられず、国民として墓地に埋葬することも許されてはいないのだ。だから目の前の黒い石には何も、二人の名前すらも刻まれていない。六年前にはまだ子供だった私でも、それが危険な真似だと嫌というほどよく分かっていたから。
「お父さん、お母さん。私、十八歳になったのよ」
 石をそっと撫でて、ぽつりと呟いたその声が届くわけもない。そもそもこの墓の中には、何も眠ってはいないのだ。
 六年前、両親は無実の罪で、異端として国に処刑された。
 彼らの遺体がその後どうなったのかは、今も分からない。

 ◆◇◆

「あら、リリーじゃないの!」
 帰り道を歩いていると、背後から聞き慣れた声が私を呼び止めた。立ち止まって振り返り、予想通りの姿に微笑んでみせる。
「こんにちは、おばさま。お仕事は?」
「もう店じまいだよ。あんたこそどうしたんだい、こんなところで。カレルが言ってたよ、今日は休みを貰ったんだろ?」
「ええ、お墓参りの帰りなの」
 両親の命日で、と付け足すと、人のいい彼女は「そうかい」と痛ましそうに眉を下げた。この人は昔からそうだ。私の両親のことなど私や弟の話でしか知らないはずなのに、まるで自分のことのように悲しんでくれる。
「もう六年になるんだねぇ。辛かったろう、リリーだってまだ子供だったのに」
「いいえ、おばさまみたいな方に出会えたもの。あのときは助けてくださってありがとうございました」
 両親が死んだあと、弟妹たちを連れて逃げるように王都の隣に位置するこの町にきた私に仕事をくれて、色々と面倒を見てくれたのがこの人だった。彼女も似たような経緯でこの町にやってきたのだと知ったのは随分後になってからのことだ。互いに面と向かって身の上を話したことはないけれど、私たちの纏っていた空気が、あるいは表情が、他人事に思えなかったのだろう。当時の私は彼女の言う通りまだ子供で、しかもそれなりに裕福で何不自由ない暮らしを送っていた世間知らずだったから、彼女に出会わなければきっと路頭に迷っていた。改まって頭を下げれば、おばさまは「あら嫌だ」と照れたように首を振る。
「困ったときはお互い様だろうに。そうだ、葡萄がたくさん手に入ってね、折角だからジャムを作ったんだ。少しカレルに持って帰らせたから、帰ったらみんなでお食べ」
「まあ、いいの? アランもヴィーも、きっととても喜ぶわ。あの子たち、おばさまの作ったものなら何でも好きなのよ」
 彼女の仕事は、つまり私の前の職場は酒場である。料理の方が主役で、あろうことか夜になると店じまいする店を酒場と呼ぶのかは疑問だけれど、本人がそう言い張るのだからしょうがない。酒も出しているから、まったくの間違いではないのだろう。昼間しか開けていないのに繁盛するわけは、彼女の料理の腕がとてもいいからに他ならなかった。それは当然ジャムなんかの加工食品にも言えることで、私が家で作ったところでおばさまの作ったものと同じ味にはならないのだ。
「おや、じゃあ今度、あんたが休みのときにでもうちに連れておいで。とびっきりの料理をご馳走してあげるよ。カレルの働きっぷりも気になるだろ?」
 彼女に友人だという仕立屋の女主人を紹介され、そちらで働き始めたのは少し前のことである。雑談の中で零した、裁縫が好きだという言葉を覚えていてくれたのだろう。私が抜けた穴を埋めるように、今は上の弟が彼女の店で働いていた。
「ええ、とても! 真面目な子だから、お邪魔にはなっていないと思うけれど……」
「邪魔? とんでもない、よく働いてくれて助かってるよ。むしろあの子は少しくらい手を抜いてもいいね」
「……それは、私もそう思うわ」
 四つ年下の彼は私の弟とは思えないほど頭のいい子で、高等学院に行ってちゃんと勉強すればかなり優秀な成績を取れるだろう。実際そう提案したこともあるのだけれど、あの子は頷きはしなかった。自分のためにお金を使わせるのは申し訳ない、と。ただ、高等学院へ通うことを諦めたわけではないらしい。成績優秀者に与えられる学費免除の権利を狙って、仕事の合間に熱心に勉強しているのは知っている。そのくせ他のことにも真摯に取り組むものだから、いつか体を壊しやしないかと心配で堪らないのだ。
「それじゃあ、お言葉に甘えてそのうち伺うわ。カレルには内緒にしておいてくれる?」
「ああ、いいとも。きっと驚くよ。……っと、だいぶ話し込んじまったね。気を付けてお帰り、みんなあんたの帰りを心待ちにしてるだろうから」
「ありがとう、おばさま。こちらこそ引き留めてしまってごめんなさい、また今度」
 私たちが住んでいるのは彼女の家のすぐ近くで、こうして会ったら一緒に帰ることもある。けれど今日は確か買い出しの日だったはずで、他の店が閉まる時間も迫っているのにあまり時間を取らせるのも申し訳なかった。笑顔で手を振る彼女に会釈し、帰路を急ぐ。ここに来て六年が経った今では、この道もすっかり見慣れていた。
 長かったな、と思う。普段は何かきっかけがない限り、あまり思い出さないようにしていた。けれど両親を失った日には、どうしても考えてしまう。カレルもそうなのだろう、毎年この日は妙に口数が多いから。下の弟や妹は、あのときはまだ生まれて間もなかったから、今ではもう両親の顔すら覚えていないはずだ。それがどうしようもなく悔しくて、哀しくて……けれどあの頃の私に出来ることなんて何もなく、ただ残された家族を守るために必死だった。ようやくこの町に辿り着いても、突然現れたやけに身なりのいい子供なんて、警戒されないわけがない。おばさまに助けられて、少しずつ、本当に少しずつ他の人たちにも受け入れてもらえたのだ。大人になればきっと、六年は短く感じるのだろう。けれど私たちにとっては、それは気が遠くなるほど長い時間だった。
 王族や貴族の機嫌を損ねたら異端扱いのこの国で、放った一言がたまたま誰かの気に障ってしまったのだから、それは運が悪かったと言えるのかもしれない。けれど、そう自分を納得させることは、いつまで経っても出来そうになかった。だって考えてしまうのだ。もしかしたら私たちは今も王都の裕福な家で、家族みんなで幸せに暮らしていられたのかもしれないと。もし両親が王族に目を付けられなければ。もし、……彼らが死ぬ前に、それは間違っていると誰かが言ってくれれば。
 誰か――あの時点で、両親の処刑を止められる人間は数えるほどしかいなかったはずだ。具体的には、一度決まったことを覆せるのは王族くらいだろう。罪人の処刑に関しては、当時から変わらず、ある王族の男が決定権を持っている。彼が私と数歳しか違わないと知って、両親が捕まったとき、私は本気でそいつのところに乗り込もうとしたのだ。土下座でも何でもして、どうか両親を殺さないでくださいと縋ろうと思った。けれどそうすれば、私の方が殺されてしまうかもしれない。私は両親の命よりも、彼らと交わした約束を取ったのだ。生きろというその願いを、弟や妹たちを守れという最期の願いを、守らなければならなかった。
 不意に鈍い衝撃が伝わる。角を曲がってきた人にぶつかったのだ、と一拍遅れて気付いた。考え事に没頭していてろくに前を見ていなかったせいだろう。「ごめんなさい」と顔を上げて、私は思わず目を見開いた。
「すまない。怪我はないか?」
「……どう、して」
 漏らした言葉に、身なりのいいその男は訝しげに首を傾げる。それなりに整った容姿でそんな仕草をすれば、普通の女性は彼に惹かれるのだろう。けれど今の私には、真逆の感情しか浮かんでこない。全身の血が沸き立つような感覚は、実に六年ぶりだった。目の前の男が私のことを知っているはずもない。けれど私の方は、彼のことを嫌というほどよく知っていた。もちろんこれほど至近距離で顔を見たことはないし、言葉を交わすのもこれが初めてである。けれど、間違いない。枯れた草のような薄い茶色の髪に、紫の瞳。咄嗟に手が出そうになるのを慌てて抑え込んだ。こんな町中で、王族に暴力なんて振るったら、今度こそ私も殺されてしまうだろう。……ああ、だけど何も出来ないなんて、と唇を噛む。
 エドゥアルト・フォン・エリアーシュ。罪人の処刑に対して最終決定権を持つ王族。あの日心に刻みつけた両親の仇の顔を、私が忘れるわけがなかった。

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