同じ寝台で眠っている妹たちを起こさないようにそっと床に降りて、もう一つの寝台で母や小さい妹たちと共に眠る末妹の枕元に立つ。そっと額に触れれば昨日から続いた熱はやっと下がったようで、寝息も落ち着いていた。これなら熱がぶり返す心配はなさそうだと小さく安堵の息を吐く。そのまま静かに部屋を出ようとすると、「エステル」と背後で声がした。
「眠れないの?」
「母さん」
 声のした方を振り返り、私は小さく微笑む。暗闇の中ではその表情までは分からないけれど、彼女が寝台の上に体を起こしているのは分かった。
「ごめんなさい、起こしちゃった? 暑くて寝苦しいから、ちょっと外を歩いてこようと思って。母さんは先に寝てて」
「そう。……ねえエステル、貴女は何も心配しなくていいのよ」
「何のこと?」
 どこか硬いその言葉をはぐらかすように笑って、続きを待たずに外へ向かう。家を出た途端、薄っすらと肌にまとわりつくように吹いた風は、日が沈んでも残る暑さを緩和するには弱すぎた。もう夜も遅いのに、と小さく嘆息する。それでも、見上げれば肌を焼く攻撃的な太陽はそこにはなく、代わりに満天の星が瞬いていた。月のない夜だから、その光は普段よりも明るく見える。家から離れた方向に歩きながら、頭に浮かぶのはさっきの母とのやりとりだった。流石と言うべきか、彼女は私の本心を見抜いているらしい。
 今回はすぐに熱が下がったから良かったものの、まだ幼い末妹が無事に夏を乗り切れる保証がどこにあるだろう。それは末妹に限らず、家族全員に言えることだった。去年は特に酷い暑さが続いて、たくさんの人が死んだ。うちでは運よく全員が生き残ったけれど、母がしばらく体調を崩してしまっていた。私が故郷の村に戻ってきたのは、彼女の穴を埋めて家を手伝うためである。母が回復したらすぐに町に戻るつもりだったのに、一年もずるずると居残ってしまったのは、他ならぬ母の願いだった。数年前に出稼ぎに出て以来、年に数度帰るか帰らないかだった私のことを、母は私の予想以上に恋しがっていたらしい。しばらくお前からの仕送りが絶えても何とかなるから傍にいてやれ、という父や兄の言葉に従っていたけれど、その金もそろそろ尽きるだろうというのは、私が一番よく分かっていた。
 この村は決して裕福ではないが、際立って貧しいわけでもないから、普通に暮らしていく分にはそれでも問題ないだろう。けれどまた去年のような暑さが訪れたら、あるいは冬の厳しさが増したら、どうなるかは分からない。薬は高いのだ。私も家族とまた離れるのが嫌で、母の言葉に素直に甘えていたけれど、それで家族を守れないのでは意味がない。
「……そろそろ、戻ろうかなぁ、私」
 幸い、一年前まで働いていた職場の女将はとてもいい人で、いつ戻ってきても受け入れると言ってくれた。それどころか、もしものときのためにと同業者への紹介状まで書いてくれている。だから、働き口の心配はしなくていい。住み込みの仕事だから、向こうでの家についても大丈夫。家族と離れて暮らしたって、もう二度と会えなくなるわけではないのだ。一年前までそうしていたように、たまに顔を見せに来ることは出来る。それよりも何かあったとき、金がなかったせいで大事な人たちを喪ってしまうことの方がずっと辛い。
 小さく息を吐いて、私は祈るように目を閉じた。
「……神様、どうか」
 どうか私の大切な家族たちが、ずっと幸せに暮らしていられますように。
 そう呟いて、再び夜空を見上げる。そこに散りばめられた宝石たちは、月神の力の欠片だと聞いたことがあった。だから、月に捧ぐ祈りと同じように、星への祈りも神に届くのだと。
 不意に、無数の星の中の一つが、一際強く輝いたように見えた。
「え?」
 思わず目を見開く私に向かって、その光は勢いよく迫ってくる。逃げよう、と咄嗟に思っても体が動かなかった。混乱した頭で、ああ星が落ちてきたのだと、理解を超えたその事態を認識する。
 ぶつかる、と思った瞬間、視界を覆い尽くした眩い光と感じたこともない衝撃は、あっさりと私の意識を刈り取った。

 ◆◇◆

 重い瞼を持ち上げると、部屋の中はもう薄明るかった。他の家族はもう起きているのか、部屋の中には私しかいない。慌てて起き上がろうとしたところで、ようやく体が上手く動かないことに気付いた。寝る前に何かしたかしら、と記憶を辿っても、どうやって部屋に戻ったかすら覚えていない。確かなかなか寝付けなくて外に出て、……そうだ、星が落ちてきたのだ。ありえないはずのその事実を思い出し、無理やり体を起こしたところで、突然どくんと心臓が脈打った。
「ぁ、う……っぐ」
 熱い。熱い。体の一番奥で私の知らない何かが燃えているような、その感覚に耐え切れず寝台の上でうずくまる。やけに大きい自分の鼓動の音だけが響いていた。痛みすら伴う熱は、渦を巻くように全身に広がっていく。しばらく耐えていると、やがてその熱は体に染み込むように治まった。あとには大きな疲労感と、……何故だかは分からないけれど、まるで自分が万能になったかのような、わずかな昂揚感が残される。
 今のは一体、と体を抱いて目を瞬かせたところで、「エステル」と私を呼ぶ声がした。
「……兄、さん」
 聞き慣れたその声に、私はほっと顔を綻ばせる。けれど私と目が合った瞬間、兄はびくっと怯えるように肩を震わせた。思わず首を傾げると、彼は何かを振り払うように首を振り、寝台の横まで歩いてきて、安心したように微笑んでみせる。
「良かった、目が覚めたんだな。どうした? どこか痛いのか?」
「ううん、今は平気よ。……あの、私」
「外で倒れてたのを母さんが見つけて、俺がこっちまで運んできたんだ。二日も起きなかったんだぞ、お前」
「二日?」
 予想外のその言葉に、私は息を呑む。本当だとすればその間はろくに飲食もしていないだろうから、やけに体が重いのも頷けた。意識すると空腹は更に存在感を増す。鳴りこそしなかったものの、咄嗟に腹を押さえた私の表情を見て察したのだろう、兄はおかしそうに目を細めた。けれど続く言葉は、部屋の入り口から聞こえた知らない声に遮られる。
「お目覚めですか、エステル様。存外早かったようで」
「……え、と」
 見るからに上質な布で出来た、装飾の多い衣服。その裾についている刺繍が貴族の家の紋章だと一目で分かったのは、形こそ違えど似たようなものを、町で働いていた頃に何度か見かけたことがあったからだった。そこそこ大きく過ごしやすいあの町には、普段は王都で過ごしているという貴族の別邸がある。彼やその家族はとても町の人間に親切で、たまに別邸を訪れるとそのたびに町の様子を見に来てくれていたのだ。直接言葉を交わしたことはないけれど、町で生まれ育った同僚たちが色々と教えてくれたから、向こうでの一般教養程度の知識はあった。
 家を出たことのない兄はそこまでは知らないだろうけれど、その身に纏う雰囲気から察したか、あるいは私が目覚める前に既に会っていたのか……緊張に強張った顔で、けれど厳しさの滲む声を上げる。
「話はエステルが落ち着いてからにしていただきたい、と申し上げたはずです。妹はまだ目覚めたばかりで、混乱していて……」
「十分冷静でいらっしゃるように見えるが」
 優雅な、けれどどこか冷たさの滲む薄い微笑に、兄は気圧されたように勢いを失くした。当然だろう、貧しい村で暮らす私たちが、雲の上の存在に逆らうなんて考えられない。だからこそ、彼の態度は不可解でしかなかった。意を決して「あの」と声をかければ、男は微笑んだまま私に視線を移す。
「何でございましょう、エステル様」
「……私は、平民です」
 目の前の貴族は、何故か私に対しては、敬意を払っているように見えた。貴族はみんな身分の低い人間を見下すものだ、とまでは言わない。実際、一年前まで私がいた町をよく訪れていた一家は、平民だからと町の人たちを軽んじはしなかった。けれど、兄に対する態度を見る限り、彼は恐らくそうではないだろう。理不尽に酷いことをしたりはしないと思うけれど、必要以上に平民に優しくするような人には見えない。貴方に傅かれるような人間ではない、と暗に滲ませれば、彼は笑みを強める。
「エステル様の得られたお力は、それほどに尊いものですから」
「力、ですか?」
「はい」
 頷いた男は、ちらりと一瞬だけ兄の方を見た。お前は出ていけ、とでも言いたげな視線から、しかし兄は逆らうように目を逸らす。どうしても聞かれたくないというわけではなかったのだろう、男はどこか皮肉気に唇を歪めると、私に視線を戻した。
「星を、その身に受けられたでしょう」
 その言葉に、ハッと目を見開く。間違いない、昨日の夜に起こった、あの出来事のことだ。何故彼がそれを、という疑問はあったけれど、自分の身に何が起きたのかは知りたかった。小さく頷けば、貴族は「やはり」と驚いた様子もなく話を進める。
「王城には、貴女と同じく星の祝福をその身に宿した者が集められております。彼らは月神に選ばれた者として不自由のない暮らしを国王陛下から約束される代わりに、その強大な力を国のために使うことを求められる」
「私に、そこに加われと?」
 訊ねれば、彼はおや、とでも言いたげに一瞬だけ目を見開いた。兄が「エステル」と咎めるように私の名を呼ぶけれど、貴族はそれを気にも留めない。
「驚きました。エステル様は、理解が早くていらっしゃる」
「それは……どういう」
「いや、失礼、貴女を馬鹿にしているわけではないのです。仰る通り、私は陛下からエステル様を城にお招きするようにと仰せつかって参りました。ですが突然手にした力に戸惑い、家族と離れることを渋る者も多いと聞いていたもので」
「……私だって、家族と離れるのは嫌です」
 まるで私は喜んでそれを受け入れているかのような、そんな言い方はしてほしくなかった。小さく呟けば、男は「もちろん」と大きく頷く。
「エステル様はご家族を養うため町に出ていたと、貴女が目覚める前に聞いております。戻ってきたのは母君が体調を崩されたからであると」
 そんなことまで話していたのか、と私は思わず首を傾げた。両親も兄も、知らない相手にまで家の事情を全部語ってしまうような人ではない。まだ幼い弟妹たちにはその辺りの判断はつかないかもしれないけれど、親の言うことをよく聞くあの子たちは、むやみに話してはいけないという言いつけに背いたりはしないはずだ。そこまで考えて、目の前の男が貴族であることを思い出す。そうだ、彼に私のことを訊ねられたとして、両親や兄がそれに逆らえるわけがない。貧しい平民にとって、貴族というのはそういう相手だ。
「そんなご家族を残して王都に旅立つのを、貴女が不安に思われても無理はありません。エステル様の稼ぎがご家族を助けていたのなら、なおさらのこと。ですから、エステル様が王都に来てくださるのであれば、ご家族にも報酬を出しましょう」
「報酬?」
「はい。エステル様個人が国のために働く対価とは別に、その家族にも全員が一生不自由なく暮らしていけるだけの額は与えるようにと取り決められております。もちろん、大切なご息女をお預かりするのにそれだけではあまりに不親切ですから、その他にもこちらで出来る限りの援助は致しましょう。例えばご家族が病にかかれば医者をこちらによこしますし、貴女が望むのであればご弟妹に然るべき教育を受けさせることも出来ます」
「……本、当に?」
 家族全員が一生暮らしていける額、と彼は言った。田舎の貧しい村であっても、それは決して安い金額ではない。加えて医者まで手配してくれるとなれば、家族の生活の心配はもうしなくてよくなる。教育は……両親が頷けば、になるだろうけれど、町で暮らした経験は確実に私の中で生きている。弟妹たちの将来を考えれば、学はあった方がいい。
 家族たちがずっと幸せに暮らしていられますように、と。落ちてきた星は、あのときの祈りを聞き届けてくれたのだろうか。悩む私の肩に手を置いて、「エステル」と兄が再び私の名を呼んだ。けれどさっきとは違って、どこか泣きそうな顔で彼は首を振る。
「考え直せ、エステル。俺たちは反対したんだ。そんなの身売りと同じじゃないか。お前を犠牲にしてまで楽な生活をしたいなんて思わない」
「でも、兄さん。貯めていたお金はそろそろなくなるでしょう? そろそろ町に戻ろうかな、って考えてたのよ、私。だったら同じじゃない。むしろ王都で、しかもこんなにいい条件で働かせてもらえるなら、凄いことよ。犠牲だなんて、お城の方たちに失礼だわ」
「王都なんて行ったら滅多に帰って来られなくなるだろう!」
「それは町でも同じことでしょう。死に別れるよりずっといいわ」
 口調を強めれば、兄はぐ、と息が詰まったように黙り込んだ。当たり前だろう、去年の夏、なかなか回復しなかった母を心配していたのは私だけではないのだ。この間末の妹が熱を出したときだって、私以上に妹の身を案じていた。そんな彼に、私の気持ちが分からないわけがない。「ね、兄さん」と微笑みかければ、兄は諦めたように深く嘆息する。けれど抵抗のつもりなのだろう、言葉を続ける様子はないのを見て、私はやりとりを黙って見守っていた貴族の男の方に向き直った。
「よろしいのですか? エステル様」
「はい」
 訊ねるのではなく確かめるようなその言葉に、私は笑みを浮かべてみせる。
「私が本当にこの国の力になれるのなら、頑張ります。だから、その……私の家族のことを、よろしくお願いしますね」
「もちろんです。貴女を育んだこの家とご家族は、国が責任を持ってお守りいたしましょう。ですからどうか憂いなく、国のために尽くされますよう」
 力強く頷く彼のその瞳に、一瞬だけ、ちらと冷たい光が灯った。
 けれどすぐに消えたそれを疑問に思うことは、このときの私には出来なかったのだ。

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