08.水の姫

 その日、あかねちゃんは五年生になって初めての水泳の授業に出ました。

 水泳と言ってもまだ小学生、せいぜい泳ぎのレベルによっていくつかのコースに分かれて、それぞれ自分のレベルに合った練習をする程度です。厳しい練習などは殆どありません。
 体を動かすのは好きですが泳ぎが苦手なあかねちゃんは、他の泳げない子達と一緒に、ビート板を使って顔を水につける練習をしたりバタ足の練習をしたりしていました。

 同じコースの友達の中には泳ぐのが嫌いな友達も多いのですが、あかねちゃんは泳ぐこと自体は嫌いではありませんでした。ただ、ちょっと泳ぐのと走るのは勝手が違うから上手くいかないだけで……
 でも流石に小学校に入って五年目です、その面影も次第に無くなって、あかねちゃんの泳ぎはどんどん上達していました。

「っぷは!」
「頑張ってるねー、あかねちゃん」
「みずきちゃん!」

 息継ぎと休憩を兼ねてプールの底に足をつけ、顔を上げたところで、あかねちゃんは隣のコースの子から声をかけられました。

 家が隣同士で、小さい頃からの大親友のみずきちゃんです。
 あかねちゃんと違って泳ぎが得意なみずきちゃんは、あかねちゃん達が泳いでいるコースの隣のコース、泳ぎが一番上手な子達が集まるコースで、それはもう素敵な泳ぎを見せていました。

「あかねちゃんも随分上手になったねー。そろそろ次のコースいけるんじゃない?」
「うん、頑張るよー! まだまだみずきちゃんには敵わないけど」
「えー、でもここまで来れば、泳ぎ方なんてすぐに覚えられるもん。あかねちゃんならすぐに追いついてこられるよ」
「だと良いんだけど……っと、こんなところで話してたら怒られちゃう」
「そうだった。ま、授業ももうちょっとで終わりだし、お互い頑張ろっか」
「うん! じゃ、また後でねー」
「そだねー、後で」

 軽く頷き、手を振って、みずきちゃんは水泳を習っている人達に負けない綺麗なフォームで泳いでいきます。
 あかねちゃんは「凄いなぁ」と一瞬それを眺めた後、慌ててその後を追いかけていくのでした。

 バシャバシャと、水を蹴りながら……





 その日の放課後、あかねちゃんはいつものように、みずきちゃんと一緒に帰っていました。
 お互いに何か用事があったりするとき以外は、いつもこうして一緒に帰っているのです。

「でさ、あの子それ聞いてびっくりして、その勢いでチョーク入れひっくり返しちゃってさー」
「あははー、それで私が帰ったとき粉だらけだったんだぁ……あ、ねぇみずきちゃん、今日忙しいんだっけ?」
「え? ……どうして?」
「うーん、大したことじゃないんだけどねー。今日の算数で分からないところがあったから、教えて欲しいなぁって」

 あかねちゃんは苦手な教科がいくつかあるのですが、みずきちゃんにはそれがありません。小さい頃から、みずきちゃんは勉強も運動も得意な皆の人気者で、あかねちゃんはそれが誇らしくも羨ましくもあったりするのでした。
 なので、いつも授業で分からないことがあったときはみずきちゃんに教えてもらうのですが……

「そっかー。でもごめんね、今日はちょっと本当に無理かも」
「そうなんだ……じゃあ明日の朝、ちょっと早めに学校行って……じゃ駄目かな?」
「良いよ。あかねちゃん、迎えに来てくれる? ほら、私、朝弱いから」
「うん、分かった〜」

 会話が一段落して、一瞬の静寂が訪れます。
 それを破ったのは、あかねちゃんの隣を歩くみずきちゃんでした。

「うーん、話が無くなっちゃったね……それじゃ、怖い話でもしよっか」
「こ、怖い話?」

 あかねちゃんは、ちょっとだけびくびくしながら答えました。
 というのも、あかねちゃんは小さい頃から怖い話が苦手なのです。そしてみずきちゃんはそれを知っているはずなのですが、それでもみずきちゃんは時折こうしてあかねちゃんに怖い話をしては、あかねちゃんが怖がるのを見て楽しそうに笑うのでした。

「あ、あんまり怖くない話が良いなぁ……」
「うん、大丈夫。すぐに家に着いちゃうし、それほど怖い話でも無いから」

 みずきちゃんはポニーテールにした髪を揺らして振り返りました。一年くらい前までショートだったのがようやく背中にかかる程度になってきたその髪は、光の当たり方によっては少し青みがかって見えてとても綺麗です。
 だけどあかねちゃんが見惚れる暇も無く、みずきちゃんは振り向きました。その表情はいつもみずきちゃんが怪談を話すときと同じ真面目なもので、みずきちゃんはこうして怖さに拍車をかけているのでした。


「あかねちゃん……『八百比丘尼』って、知ってる?」


「はっぴゃく……びくに?」
「そう。やおびくに、とも言うんだけど……それは、こんな話なの」

 そうして……みずきちゃんの話は、始まりました。






 むかしむかし……とある村のとある家に、村の人達皆が招待されました。
 そこではたくさんの美味しい料理が出されたんだけど、その中に『人魚の肉』って言うのがあったのね。うん、その人魚だよ。マーメイド。上半身が人で下半身が魚の、あれ。
 え? 何でそんなものを料理として出したのかって? あかねちゃん、良いところに気が付いたね。そう、それなんだよ。

 というのも、その頃は『人魚の肉を食べれば永遠の命と若さが手に入る』って言われていたのです。

 俗に言う『不老不死』って奴ね。ほら、皆憧れるでしょ?
 で、その村の人達ももちろん最初は食べる気でいたんだけど、土壇場でやっぱり気味が悪くなっちゃったのね。そこで皆で話し合って、それを持ち帰って帰り道でこっそり捨ててしまいました。

 だけど……ね。
 一人だけ、話を聞いていなかった人がいたの……
 その人は皆と同じように肉を持ち帰りはしたんだけど、それを捨てずに隠しておいたのね。
 そしてある日のこと……その人にはとても綺麗な若い娘さんがいたんだけど、その娘さんが偶然それを見つけて、人魚の肉だと知らずに食べてしまいました。ぱくり。それはとても美味しかったから、娘さんは人魚の肉を全て食べてしまいました……あ、あかねちゃんはやっちゃ駄目だよ? 太るからね。

 少しすると、元々綺麗だったその娘は、ますます美しくなりました。人魚って美人ばっかりだから、そのせいもあるのかな?
 ちょうどそういう年頃だったこともあって、娘にはたくさんの男の人がお付き合いや結婚を申し込み、娘もやがて一人の男の人を選んで、無事結婚しました。

 ……めでたしめでたし、だったら普通の幸せな話なんだけどね。
 あかねちゃんも、きっと予想は出来ているでしょう?

 娘が結婚して数年経った頃です。
 娘の旦那さんとなった人に、仲間の漁師が言いました。

「なぁ……お前の奥さん、年をとっていないんじゃないか?」

 そんなバカな、と旦那さんは笑いましたが、少し考えて気付きます。
 あれ? そういえば結婚したときから、彼女は変わっていないぞ……と。
 疑問が確信に変わるまで、そう時間は必要ありませんでした。

 数十年が経って、旦那さんの髪の毛が真っ白になっても、娘のお父さん……人魚の肉を家に持ち帰ったあの男の人が死んでしまっても、旦那さんが死んでしまっても、娘は若く美しいままだったのです。

 ねぇ、あかねちゃん。不老不死って、ここまで来るともう嬉しくなんか無いよね?
 周りの人がどんどん死んでいく中で、娘だけは変わらないまま、何百年も過ぎました。
 娘は気味悪がられたり、ずっと若いままでも構わない! っていう変人と結婚したりもしましたが、皆みんな、娘より先に死んでしまいました。

 やがて……周りがどんどん変わっていくのに耐えられなかった娘は尼さんになって、諸国遍歴の旅に出ました。要するに、国中を回ったってことね。そうして貧しい人とか恵まれない人を助けたの。
 だけど八百年も生きるとそれも耐えられなくなって……誰にも会わないようにって、深い、深〜い洞窟の中に閉じこもってしまったんだって。

 それ以来……その娘、八百比丘尼を見た人はいません。

 だけどね、あかねちゃん……八百比丘尼は年を取らないし、死なないんだよ。
 だから、もしかしたら……今もまだ、どこかで生きているかもしれない。もしかしたらあかねちゃんがさっきすれ違った女子高生の人がそうかもしれないし、まだ洞窟の中なのかもしれない。


 本当のところは……誰も知らないんだよ。







 みずきちゃんの話は思ったより長く、終わったときにはすっかり二人の家の前でした。
 立ち止まってみずきちゃんの話を聞いていたあかねちゃんは、小声で感想を言いました。

「怖いって言うより……悲しいお話だったね」
「……そう、だね」

 一瞬だけ。
 みずきちゃんの表情が、揺らぎました。

「うん。悲しい、お話だよ」
「……みずきちゃん?」

 不思議に思ったあかねちゃんが首を傾げると、みずきちゃんはすぐに笑顔を浮かべました。

「何でも無いよ。じゃ、また明日ね、あかねちゃん。ちゃんと迎えに来てね?」
「うん、また明日ね、みずきちゃん! 大丈夫、忘れないよ!」

 いつも通りの挨拶を交わして……二人は、それぞれの家に入りました。
 そう……このときは、いつも通りだったのです。
 このときは……。



 あかねちゃんは知りません。
 八百比丘尼の伝説には、誰も知らない続きがあることを……
 八百比丘尼には、一人の娘がいたことを……。



 その日の夜のことです。
 あかねちゃんは、ふと夜中に目を覚ましました。

「喉、渇いたなぁ……」

 そう思ったあかねちゃんは一階の台所へと降りて行って、水を飲んで、部屋に戻ろうとしました。
 そこで、『それ』を見たのです。


「……あれ? みずきちゃん……?」


 窓のカーテンの隙間から、一瞬だけ見えた人影……それは、とても見慣れた親友のものでした。慌てて窓の外を覗きますが、間違いありません。あれはみずきちゃんです。

「どうしたんだろう……こんな夜遅くに」

 しかもみずきちゃん一人です。夏とは言え真夜中ですから暗く、あかねちゃんは両親に「危ない人がいるから、夜は出歩いちゃ駄目」と何度も言われています。それはみずきちゃんの家でも同じだったはずなのですが……
 不思議に思ったあかねちゃんは一瞬だけ考えて、そして物凄く急いで普段着に着替え、こっそり家を出て、その後を追いかけることにしました。

 みずきちゃんの後を追いかけながら、あかねちゃんはあることに気付きました。
 みずきちゃんの向かっている方向。歩いている先にあるのは……

「学校……みずきちゃん、忘れ物でもしたのかな?」

 でもそれもおかしいな、とあかねちゃんは思います。
 みずきちゃんは忘れ物なんか滅多にしないしっかりした子ですし、したとしても普段は夕方くらいには気付いて取りに行きます。少なくともこんな夜中に、しかも一人で行くなんて……。

 みずきちゃんは学校の裏、フェンスに穴が開いている部分を潜ります。あかねちゃんは知りませんでしたが、それは校内では割と有名な抜け道で、遅刻した生徒などはここを通ることも多く、上手くフェンスを隠せば分からないため、先生達は気付いていない抜け道でした。
 こんな道があったんだ……と驚くあかねちゃんですが、みずきちゃんは勿論待ってなどくれず、スタスタと迷い無く歩いていきます。
 あかねちゃんは慌てて後を追いかけました。


 やがてみずきちゃんが辿り着いたのは、昼間まで皆で泳いでいたプールでした。


 何故、と首を傾げるあかねちゃんに気付かず、みずきちゃんはスッと髪を留めていたゴムを外しました。
 ふぁさっ、と広がる伸びかけの髪は透き通るように青く、月明かりに照らされてとても綺麗で――

「あれ?」

 あかねちゃんはそこで、思わず声を上げてしまいました。
 何故って……みずきちゃんの髪は、あそこまで綺麗な『青』だったでしょうか?

「え……あかねちゃん?」
「あっ……」

 驚いている時間が、あかねちゃんにとって命取りでした。

 我に返ると、青く目を光らせたみずきちゃんがこちらを振り返って、あかねちゃんを見つめていました。
 逃げよう、逃げなきゃ駄目と自分に言い聞かせても、体が動きません。
 やがてみずきちゃんの表情は、驚きから笑みへと変わりました。
 獣が獲物を見つけたときの、残虐で楽しそうな笑みへ……

「あかねちゃん、そこで何してるのかなぁ?」
「え……あ、えっと……」
「まさか私を追いかけてきた、なんて言わないよね? あかねちゃん良い子だもん、そんなことしないよね?」
「うあ……えと、その……」

 答えに詰まるあかねちゃんは、気付きませんでした。
 いつの間にか、みずきちゃんがすぐ目の前にいたことに。

「そんなことしちゃった悪い子には……罰を、与えないとね」

 助けて、と叫ぶ暇も無く、みずきちゃんはあかねちゃんの首を掴み、抱き寄せます。
 いえ、叫んだとしてもきっと誰も来なかったのでしょう。
 だってみずきちゃんはあかねちゃんを押さえつけたまま、声高に叫んだのですから――



「お母様、私に道を」



 ざわ、と音を立て、みずきちゃんの青い髪の毛は地に付くほどに伸びました。
 ざわ、と音を立て、月明かりに輝くプールの水は大きく割れました。

 だけどそこに見えるのはプールの底ではなく青みを帯びた黒い穴で、みずきちゃんはあかねちゃんを抱えたまま、躊躇い無く穴に飛び込みました。





 ふと気付くとそこは暗い岩窟の中で、あかねちゃんはみずきちゃんに抱えられたまま、そこに立っていました。
 そのわけの分からない状況に、あかねちゃんの恐怖心は一気に膨れ上がります。

「み、みずきちゃん! ここ、どこ!? 何で私を連れてきたの!?」
「……うるさいなぁ、食料は黙っててよ」
「しょく……りょう?」

 その、人に向けるにはあまりにもおかしい言葉に、あかねちゃんは思わず絶句します。
 それを見たみずきちゃんはやれやれとでも言いたげに嘆息して、それでも説明してくれました。
 あかねちゃんには理解出来ない、したくない説明を。


「あかねちゃん、さっきの『私』を見ちゃったでしょ? ちょうど良いからお母様の食料になってもらおうと思って。あかねちゃん美味しそうだし、しばらくもつかな?」


「何……言ってるの、みずきちゃん」
「ごめんね。私もまた『年齢を巻き戻す』のは面倒だし、あかねちゃんは好きだし、出来ればずっと一緒にいたかったけど……あかねちゃんが私を追いかけてきちゃうのが悪いんだよ。だからせめて、長く苦しんだりはしないようにしてあげるから」
「……分かんない。分かんないよ私、みずきちゃんが何言ってるのか! 食料って何!? 人間が人間を食べるなんて、そんなのあって良いわけ無いよ! それに『お母様』って誰!? みずきちゃんのお母さんは一人だけでしょ!? 私知ってるもん、みずきちゃんのお母さんはそんなこと絶対しない人だし、こんなところにいないよ!」

「違うよ。『お父さん』も『お母さん』も、私の本当の親じゃないもの。私を産んでくれたのはお母様だもの。人魚だから、人を食べたって良いんだよ」

「人魚……!?」
「そう。八百比丘尼って言えば分かるかな?」
「それって、昼間に話してた……」

 不老不死の人魚を食べると、不老不死になる。それってつまり、人魚になるってこと?

 じゃあ、みずきちゃんの『お母様』って。
 じゃあ、みずきちゃんも……

 ……人魚なの、と。
 だからそんなこと出来るの、と。
 そう訊ねる暇は、あかねちゃんには与えられませんでした。

「お母様」

 みずきちゃんの声と同時に、首筋に鋭い痛みが走ったからです。
 それは一瞬だけで、すぐにあかねちゃんの意識は遠ざかっていきました。

「や、だ……死にたくないよ……」

 ようやく沸いた死の実感と恐怖の狭間に。
 あかねちゃんはふと気付きました。


 そういえばみずきちゃんとは小さい頃からの友達だけど……みずきちゃんが赤ちゃんのときの写真は、一度も見たことが無かったな、と。












 人が一人倒れる音が、洞窟内に反響しました。













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