14.つかの間の平穏に身を委ねるは

 その日、あかねちゃんは、学級での仕事を手伝っていました。学級委員のなつきちゃんに頼まれて、一緒に仕事をすることになったのです。
「ねぇ、なつきちゃん。このプリント、これで大丈夫?」
「あ、うん。あかねちゃん、ごめんね。手伝ってもらっちゃって」
「ううん、大丈夫だよ! 困ったときはお互い様でしょ!」
「あはは、ありがと」
 そんな風に笑いながら、ふと時間が気になり、教室の時計に目を向けました。
「あ、れ……?」
あかねちゃんはおかしなことに気づきました。
 今日、授業が終わったのは、午後3時。その後でなつきちゃんに仕事を手伝ってほしいと言われ、始めたのは3時半。それなのに……
「どうしたの? あかねちゃん」
「あ、えと、時計……」
「時計? あ……」
「壊れちゃったのかな?」
「わかんない。けど、時間が止まるのはわかるけど、戻ることなんてあるかな?」
教室の時計は何故か、2時ちょうどを指していました。
「あ、なつきちゃん、携帯電話持ってたよね。それで本当の時間、確かめられるんじゃない?」
「そっか、ちょっと待ってて」
なつきちゃんは、連絡をすぐに取れるようにとお母さんから携帯電話を持たされていました。いそいそとランドセルから電話を取り出して開きます。
「えっ!?」
「……どうしたの?」
「何で……携帯の時計も、2時になってる……」
「え、ほんと?」
「うん、本当だよ、ほら」
そういって、携帯電話のディスプレイをあかねちゃんのほうに向けます。
するとそこには「2:00」と、はっきりと表示されていました。
「……ねぇ、この時計、進んでないよ」
あかねちゃんはもうひとつの違和感に気づき、そう言います。
 たしかに、さっき教室の時計を確認してから、なつきちゃんの携帯電話を見るまで、少し時間がありました。
 けれど、教室の時計も、携帯電話の時計も、2時を示したままです。
「何で……?」
「それに、なんかすごく、静かじゃない? さっきまで、先生とか他のクラスの人たちの声、聞こえてた……よね?」
「……! そういえば……」
 2人はだんだん怖くなってきました。けれど、もしも1人だったら……と考えると、いくらかその怖さが薄れてきました。
「ねぇ、帰ろう? あたしたちは動けるし、外に出れば元に戻ると思う」
「ううん、なんとなく、それはやめたほうがいい気がする……」
「何で?」
「わかんない……でも、動かないほうがいい気がするの」
「そんな……ずっとここにいたって、何も変わらないじゃない」
 なつきちゃんは何度も帰ろうとあかねちゃんに言いましたが、あかねちゃんは頑なにそれを拒みました。
 この教室を出てしまったら、二度と家に帰れなくなる……あかねちゃんは何故か、そんな予感がしていました。
「こんなとこにいたって怖いだけだよ! ね、だから帰ろう?」
「……駄目。教室から出たらもっと怖い気がする……」
「もう、あかねちゃんが帰らないなら、あたし一人で帰るから!」
「え、でも……」
「大丈夫、何かあったらお母さんに電話すればいいんだし。また明日ね! あかねちゃんも、大丈夫だって思えたら早く帰ったほうがいいよ?」
そういい残して、なつきちゃんはランドセルを背負い、教室から出て行ってしまいました。
「……大丈夫かな」
あかねちゃんはなつきちゃんが出て行った扉を見つめながらそう呟きました。
 既になつきちゃんの足音も完全に聞こえなくなり、あかねちゃんの周囲は静寂に包まれています。
「……早く、帰りたいよ……」
あかねちゃんはだんだん心細くなってきました。
 そして、我慢できずに立ち上がろうとした時、かちり、と小さな音がしました。その音は規則正しく何度も繰り返されます。
「……もしかして」
あかねちゃんは振り返って、教室の時計を見ました。
「あ、動いてる……」
さっきまで微動だにしていなかった時計の秒針は今、かちかちと小さな音を立てながら動いていました。
 それに、時計が指している時間も2時ではなく、4時15分。
「よかった……」
あかねちゃんは、安堵の表情を見せました。
「あれ、まだ残ってたの?」
「っ! あ、先生……」
 不意に声をかけられびくりとしましたが、その声の主は先生だとわかり、ますます安心するあかねちゃん。
「すみません、少し学級の仕事をお手伝いしてて……もう今日の分は終わったので、帰ります」
「そう。先生もこれから職員室へ戻るところだから、一緒に行こうか」
「はい」
あかねちゃんは自分のランドセルを背負うと先生の隣に並びました。
 そして一階へと、階段を下りていきます。
「まだ結構、残ってる人いるんですね」
「あぁ、クラブ活動の子達だね。でも、活動は4時半までだから、もうすぐ先生しかいなくなるよ」
「そうなんですか」
そんな話をしているうちに、職員室の前につきました。
「じゃあ、気をつけて帰ってね」
「はい、さようなら、先生」
あかねちゃんは先生と挨拶を交わし、昇降口へ駆けていきました。

***

 次の日、あかねちゃんが学校へ登校すると、学校の駐車場にパトカーが停まっていました。
(事故でもあったのかなぁ……)
そんなことを考えながら、あかねちゃんは自分のクラスのある階へ行きました。
「あれ……わたしのクラス? なんだか人がいっぱい……」
見ると、あかねちゃんのクラスの教室の周りには、他のクラスの子や、先生、それに警察の人もいました。
 あかねちゃんは何があったのか確かめようと、教室へ近づきます。
「あ、あかねちゃん、おはよう」
「みずきちゃん。おはよう。ねぇ、一体何があったの?」
「うーん、わたしもさっき知ったばかりなんだけど……」
そして、みずきちゃんは小声で言います。
「学級委員のなつきちゃん、昨日、亡くなったんだって」
「えっ、なつきちゃんが!?」
「しっ、声が大きいよ、あかねちゃん」
「ご、ごめん……でも、何で……」
思い出すのは、昨日の不可解な現象。
「原因はわからないんだけど……血まみれで倒れてるのを、先生が見つけたんだって」
「うそ……」
「わたしが知ってるのは、そこまで。……ねえ、あかねちゃん」
「何?」
「あかねちゃん、昨日、最後までなつきちゃんと一緒にいたよね?」
「うん……お手伝い、してて」
「その時さ、何か……変なこととか不思議なこと、起きなかった?」
「っ!」
「起きたんだね……教えてもらっても、大丈夫?」
「うん……実はね……」
あかねちゃんはみずきちゃんに、昨日、急に時計のさす時間が動かなくなたこと、その時、辺りが異様に静かだったことを話しました。
「ありがと。……なるほど、原因はそれか」
「え?」
「あ、ううん、なんでもない。時間が止まるなんて……本当に、不思議だね」
「ね……あの時わたし、動いちゃ駄目だって思ったんだ」
「え?」
「時間が止まってる間に、この教室から出たら家に帰れなくなっちゃうって、何でかはわからないけど、そう思ってた」
「そっか……たぶんそれ、正解だと思う」
「……どういう、意味?」
「安全かどうかわからないときは、うかつに動いちゃ駄目、ってこと」
「そう、だね」
「あ、警察の人、もう帰ったみたい。教室いこっか、あかねちゃん」
「うん」
 教室は案の定、重い雰囲気に包まれていました。
 担任の先生の声も、どこか暗く沈んでいます。
「皆さんも知っているでしょうが、学級委員の眞宮夏樹さんが昨日、亡くなられました。皆さん、夏樹さんのご冥福を祈り、黙祷をしましょう」
 あかねちゃんは、最後に見たなつきちゃんの姿を思い浮かべました。
(あの時、わたしが止めていれば……)
そんな、後悔の念が沸いてきます。
(なつきちゃん……)
昨日のことを思い出し、あかねちゃんは涙を零しました。
 午後になると、暗い雰囲気は消えずとも、生徒たちの間に少しずつ笑顔が戻っていました。
 けれど、あかねちゃんは、ずっと悲しそうな表情のままです。
「あかねちゃん、大丈夫?」
「あ、みずきちゃん……」
「一緒に、帰ろう?」
「うん……あっ」
「どうしたの?」
「ご、ごめんねみずきちゃん、ちょっと待っててもらってもいいかな?」
「いいけど……なんで?」
「先生に出すプリント、ぼーっとしてて忘れてたの……! まだ間に合うだろうし、行ってくる!」
「わかった。じゃ、わたしここで待ってるね」
「うん!」
あかねちゃんはランドセルからプリントを取り出し、ついさっき教室を出て行った先生を追いかけました。
「せ、先生っ!」
「おや? どうしました、赤音さん」
「すみません、プリント提出するの、忘れちゃってました」
「あぁ、成る程。わざわざありがとう」
「いえ、忘れてたわたしが悪いので……」
「確かに受け取ったよ。じゃあ、気をつけて帰ってね」
「はい、さようなら」
 先生に挨拶をしてあかねちゃんはみずきちゃんの待つ教室へ戻ろうと踵を返しました。
 けれど、振り返った途端、向こうから歩いてきた誰かにぶつかって、しりもちをついてしまいました。
「あっ……ごめんなさい!」
「ううん、大丈夫……」
「あ、でも、足……」
相手の女の子も、あかねちゃんと同じようにしりもちをついていました。そして、その勢いでか、足を少し擦りむいてしまったようです。
「……絆創膏あるから、大丈夫」
女の子はゆっくり立ち上がりました。
「そうなの?」
「うん……」
「じゃ、わたし、人を待たせてるから」
「うん、ばいばい……」
あかねちゃんは、教室へ戻るために立ち上がり、廊下を歩いていきました。
 女の子はそんなあかねちゃんの背中をじっと見つめ、小さな声で呟きました。
 
 「みぃつけたぁ……」

***

「お待たせ、みずきちゃん! って……」
「あ、あかねちゃん……」
「久しぶりだね、あかね」
あかねちゃんが教室に戻ると、そこには、みずきちゃんと魔法使いのそれのような帽子をかぶった男の子がいました。
「……まったく、何しに来たの? あんた」
「何って、そりゃあ仕事をしに、だよ?」
「……ニコロ?」
あかねちゃんは、おずおずと男の子に話しかけます。
「あ、覚えててくれたんだ♪」
「覚えてるも何も……あんな登場されたら忘れられないでしょ」
みずきちゃんはため息をつきながら言います。
「というか、なるべく人の前に姿を現さないんじゃなかったの?」
「あれ、そんなこといったっけ? まぁ、どちらにしろ、もう2人には僕の存在知られてるわけだし、些末な問題だよね〜♪」
「些末って……」
「大丈夫なの?」
「だいじょーぶだいじょーぶ♪ 仕事さえちゃんとすればねっ」
「あ、そうだ。その仕事って、何よ?」
思い出したように、みずきちゃんがニコロにたずねます。
「ん、ちょっとじっとしててね、あかね」
「え……」
ニコロは、あかねちゃんの心臓のある位置に手を当て、そこから何か黒っぽく光るものを取り出しました。
「なに、それ……」
「これが僕らの仕事。あかねが今日泣いて、これができたから、狩りに来た」
「どういうこと?」
「うーん、教えるのはご法度なんだよねぇ……。これに取り憑く悪い奴がいる、ってだけ、言っておくよ」
「え……」
「で、そいつらが人間に取り憑くのを防ぐために仕事してるのが僕らってわけ。これでいいかな? みずき」
「なんとなくだけどわかったし、別にいいわ」
「フフッ♪ そっか、ならよかった」
ニコロは楽しそうに笑います。
「じゃ、僕の仕事は終わったし、そろそろ帰るよ。あ、それと、あかね」
「なに?」
「気をつけてね」
「え?」
「ちょっと、どういうこと?」
「何かがあかねに狙いをつけたみたい。それも、悪質な奴がね」
「えっ……!」
「だからさ」
そこでニコロは、視線をみずきちゃんに移します。
「あかねを守ってあげてね、みずき」
「言われなくても!」
「あの、どうして、そんなことを……?」
「ん〜……」
ニコロは考える素振りを見せてから、ぱっと笑顔になって言います。
「あかねがお気に入りだから?」
「……!」
「っと、そんなに怒らないでよ、みずき。ヘンな意味じゃないってば」
「変な意味だったらただじゃおかないわ……というか、あんたが直接その悪質な奴を倒せばいいじゃない」
「いやぁ、そうしたいのは山々なんだけどね〜……上がうるさくて、あんまり干渉できないんだ。こうして話すのも、できれば避けたほうがいいって言われてるし」
「思いっきり長話してるじゃないの」
「それはそれ、これはこれ♪ 相手が君たちだから、ギリギリ許されてるって感じかな」
「なにそれ?」
「わたしたちは、特別ってこと?」
「そんな感じだね〜。そういうわけだから、暫くの間あかねは、みずきとなるべく一緒にいてね。じゃ、またね、2人とも♪」
その言葉と同時に、ニコロの姿は見えなくなりました。
「行っちゃった……」
「帰ろっか、あかねちゃん」
「うん!」
そして2人は、教室を出ていきました。
 それから少しして、誰もいなくなった教室に入ってくる人影がありました。
 その人は、廊下であかねちゃんとぶつかった、あの女の子でした。
 女の子は教室の机のひとつに座っていました。
「昨日のあのこは、ちがっていたわ。だって今日、ほんものをみつけたもの」
 女の子の顔に笑顔が浮かびます。
「ほんものはとってもすてきだったわ……でも」
今度は怒ったように顔を顰め、手を握り締めました。
「やっと、やっとみつけたのに……じゃまなのがいるわ……」
彼女はぽつりぽつりと言葉を溢します。その様子は、自分がこれからすることを、ひとつひとつ確認しているようにも見えました。
「あいつらを……あいつらをたおせば、わたしは……」
溢す言葉に、だんだん熱がこもってきます。
「そのために、もっと、もっともっともっともっと、強くならなきゃ……」
そこまで言って、女の子はゆらりと立ち上がりました。そして、高く手を掲げようとして……
「あれ、誰か残ってるのか?」
ちょうど教室の前を通りがかった先生の声が聞こえ、やめました。
「先生……ちょっと、わすれものをしていたので……」
「ん、そか。早く帰れよ」
「はい……先生」
「ん、なんだ? って……」
呼び止められた先生は、驚きを隠せませんでした。
 ついさっきまで教室の真ん中くらいの場所にいた少女が、今は自分の目の前にいるのです。
「っ、な……」
「……この際、先生でもいいわ。……いただきます」
「っ!?」
先生の顔が更なる驚愕に歪むより早く、少女の手が、先生の胸の辺りから躯の中に、文字通り、入っていきます。
 ずるり、と、少女の手が何か、てかてかと光るものを掴んで引き抜かれると、先生は床に倒れ伏し、二度と動かなくなりました。
「ごちそうさま……ふふ、ふふふふふ」
 赤黒く染まった廊下に、少女の不気味な笑い声が響きました。

***

 次の日、あかねちゃんたちの住む街は、パニックに陥っていました。
 昨夜のうちに5人、全員が同じ状態で亡くなっているのが発見されたのです。
 そのため、あかねちゃんの通う小学校は臨時休校となりました。
「今日は学校、お休みかぁ」
あかねちゃんは、自分の部屋でお勉強をしていました。
「暇だなぁ。みずきちゃんと遊びたい……でも、危ないよね……」
 あかねちゃんは一度勉強道具を片付けると、お母さんのいるリビングへ行きました。
「あら、あかね、どうしたの?」
「宿題終わったし、テレビ見ようかなって」
「あぁ。でも、あかねが見たいような番組はやってないかもしれないわよ」
 あかねちゃんはテレビのリモコンを手に取り、テレビの電源を入れます。
 ニュース番組では、やはり件の事件のことを取り上げていました。
「あれ……?」
「どうしたの?」
「これ、隣のクラスの、先生……」
「え?」
 あかねちゃんが反応したのは、昨夜の事件の被害者の名前でした。
 そこに、あかねちゃんの知る先生の名前があったのです。
「ちょっと、みずきちゃんに電話してみてもいい?」
「えぇ、いいわよ」
 お母さんの了承を得て、あかねちゃんはみずきちゃんの家へと電話をかけました。
『……もしもし?』
「もしもし、みずきちゃん? わたし……あかねだよ」
『あかねちゃん? どうしたの、急に』
「あのね……今、ニュースをみたら、先生の名前が……」
『あぁ、隣のクラスの……そういえば、この事件の犯人、殺された人たちの状態から、なつきちゃんを殺した犯人と同じ可能性があるみたい』
「そうなの……?」
『うん。新聞にはそう書いてある』
「怖いなぁ……」
『……ね。早く解決するといいんだけど』
「うん……明日は学校、あるかなぁ?」
『あるんじゃないかな? 多分、午後の授業がなくなったり、先生の見回りが多くなったりするだろうけど』
「先生の見回り……でも、先生も被害にあってるのに、大丈夫なのかな……」
『まぁ、そうだよね……。ほんと、嫌になるね、こういう事件って』
「うん……もし自分が巻き込まれたら、って思っちゃう」
『わかるな、それ。つい考えちゃうよね』
「実際どうなるかなんてわからないのにね」
『まぁ、きっと時間がたてば犯人も捕まるだろうし、大丈夫だよ』
「うん……」
『それに、わたしがあかねちゃんを守るから』
「えへへ……ありがとう、みずきちゃん」
『ふふっ、じゃあ、またね』
「うん!」
最後は笑顔で、電話を切ったあかねちゃん。
 お母さんも、あかねちゃんの笑顔を見ると「みずきちゃんとお話できて、良かったね」と言いました。
 その日あかねちゃんは、家の中で家族と一緒にゆっくりと過ごしました。

***

「あかね、起きて。今日は学校あるみたいよー」
「う……ん」
 次の日の朝、あかねちゃんはお母さんの声で目を覚ましました。
「おはよ、あかね。遅刻しないように早く朝御飯食べてね」
「はーい。今日、学校あるんだ……」
「えぇ、今朝電話があったのよ」
「ん、わかったー」
あかねちゃんは階下に降りると、洗面所で顔を洗い、キッチンのテーブルにつきました。
「いただきまーす」
既に用意されていた朝御飯を、あかねちゃんはおいしそうに食べました。
 そして、ご飯を食べ終わると、歯を磨いたり、持ち物を確認したり、服を着替えたりして過ごしました。
「あかねちゃーん、おはよー」
「あ、みずきちゃんだっ。お母さん、いってきます!」
あかねちゃんが準備をしていると、みずきちゃんが家に迎えにきてくれました。
「はーい、いってらっしゃい。あ、そうだ、あかね」
「なーに?」
「これ、持っていきなさい」
「防犯ブザー?」
「えぇ、ないよりはいいと思うから」
「わかった、ありがとー」
「じゃぁ、いってらっしゃい、気をつけてね」
「うん、いってきます!」
元気よく挨拶して、あかねちゃんは家のドアを開けました。
「あ、おはよう、あかねちゃん!」
「おはよう、みずきちゃん! 昨日はびっくりしたね、急にお休みになって」
「そうだね。今日は、何もないといいね」
「本当、そうだね」
そんな話をしながら、小学校へ向かう二人。おしゃべりしていると、時間がたつのが早く感じられます。
「やっぱり先生たち、外に出てるね」
「まぁ、昨日の今日だしね……」
小学校の校門の前には、案の定、何人かの先生が立っていました。怪しい人物がいないか見張っているのでしょう。
「あんなふうに露骨に見張ってたんじゃ、"怪しい人物"もきっと近づかないだろうね……」
「あはは、確かに……」
みずきちゃんの呟きにあかねちゃんは苦笑しつつも同意します。
「二人とも、おはようございます」
不意に、二人の背後から声がかけられました。
「あ、先生。おはようございまーす」
「おはようございます」
「連絡網をまわしたんですが、二人は既に家にいなかったようですので、今伝えますね。今日は短縮授業になりました。なるべく二人以上で、明るいうちに家に帰ってくださいね」
「はーい」
「短縮授業ってことは、午前中で終わるんですか?」
「はい。家に帰ってからも外出は控えたほうがいいでしょう。危ないですからね」
「わかりました」
「では、先生はそろそろ戻ります」
「はーい」
「私達も教室に行こう、あかねちゃん」
「うん」
 あかねちゃんとみずきちゃんは、ぱたぱたと教室へ駆けていきました。
 1日ぶりの教室は、いつも以上にざわついていました。
「やっぱり皆、あの話、してるね……」
「そうだね……」
しかし、そんなざわついた教室も、チャイムが鳴り先生が入ってくるとすぐに静かになりました。
 教卓の前に立った先生が口を開きます。
「おはようございます。皆さんすでに知っていると思いますが、今日は短縮授業で、午前中に学校が終わります。その理由はわかっていますね? 遊びにいくのは控えてくださいね」
そう先生に言われ、児童たちは、はぁい、と返事をしました。

***

 そうして、放課後になりました。
「みずきちゃん、一緒に帰ろう!」
あかねちゃんはみずきちゃんに声をかけました。
「うん! あっ、でもその前に、トイレに行ってもいい?」
「わかった、待ってるね」
「うんっ」
駆け足で教室から出ていくみずきちゃんを見送り、あかねちゃんは自分の席に座りました。
「絵でも描いて、待ってようかな?」
あかねちゃんはランドセルから自由帳を取り出して、まだ真っ白なページを開きました。そして、さりさり、しゃっしゃと鉛筆を動かして、自由帳に絵を描き始めました。
 どのくらいの時間が経ったでしょうか。
「できたぁっ!」
がたん、と勢いよく椅子から立ち上がり、ちょうど描き終えた絵を眺めます。
 真っ白だったページは今、赤やピンクや黄色の色鉛筆で鮮やかに彩られていました。
「みずきちゃんが戻って来たら見せてあげ……あ、れ?」
 そこで、あかねちゃんは気づきました。
 みずきちゃんが戻ってくるのに十分すぎる時間が経っていることに。
 そして、教室に、あかねちゃんひとりしかいないことに。
「え、なんで、皆……今、何時……?」
 混乱しながら見上げた時計は、
「……うそ」
 2時ちょうどをさしていました。
「……ッ」
 思わず後退りをした拍子に椅子にぶつかり、がた、と音が鳴りました。それにさえ驚いて、あかねちゃんは肩を跳ねさせます。
 そうだ、あの時と同じ……あの時と同じように、じっと待っていれば、きっと元に戻るはず。そう考えて、椅子に座りなおすと、ぎゅっと目をつむります。けれどすぐに耐えられなくなって目を開き、教室をぐるりと見回しました。
「……」
何も、変わりはありません。みずきちゃんの机にはランドセルが置かれたままだし、黒板には、クラスメートがふざけて描いた落書きが残っています。そしてやはり、時計も、2時をさしたままでした。
「そこは、変わっててよ……」
肩を落として、あかねちゃんが呟きました。それと同時に、遠くの方から足音が聞こえてきます。
「近づいてる……みずきちゃん、かな」
 親友の名を口にしながらも、薄々わかっていました。この足音の主は彼女ではない、と。そして、ここへやって来るのはきっと、恐ろしい化物だということも。
 あかねちゃんは、なるべく足音から遠い方の扉へ近づいて、足音を聞いていました。ゆっくり、ゆっくり、近づいてくる、その、足音、が、
「――ッ」
 勢いよく教室の扉が開き、驚きに目を見開くあかねちゃんの前に、ひとりの少女が姿を現します。
 その子はあかねちゃんに目をやると、口の端を上げて、言いました。
「みーぃ、つけ、たぁ」
 耳に届いた明るい声とは裏腹に、とても昏い色をした目に見つめられ、あかねちゃんは凍りつきます。逃げなければならないとわかっているのに、体が動きません。
 そうしている間にも、少女はあかねちゃんに近づいて、そして手を伸ばします。
「うふふ、ふふふふふ、ふふふ、わたしね、たくさん、たくさん、食べたのよ」
「……え?」
「あなたのまわり、じゃまがおおくて、だから、強く、なるために……ふふふ」
 まさか、と、頭の中をよぎったひとつの可能性を、あかねちゃんは慌てて打ち消します。それでも、一度思い当たってしまったその「まさか」は、次から次へと湧き上がってくるのです。
「あ、あなたが……なつきちゃんや、先生を……?」
「そうよ。一人目は、とってもいいにおいがしたの。でも、はずれだった」
「はず、れ?」
「でも、いいわ。こうしてほんものに出会えたんだもの。あなた、とっても、おいしそう」
「ッ、やだ!」
 叫ぶと同時に扉を開いて、廊下から階段へ駆け出します。途中で足がもつれて転びそうになるのをどうにか立て直して、ばたばたと階段を下りていきました。
「どこへ行けば……そうだ、昇降口……っ」
 一気に一階まで駆け下りて、昇降口を目指します。廊下はひどく静かでした。あかねちゃんが走っているのに、足音が響くこともありません。けれど、そんなことを気にしている余裕はありませんでした。追いつかれる前に、早くここから逃げなければ……そればかりが、あかねちゃんの中でぐるぐる回っていました。
 昇降口にたどり着くと、下駄箱の間をすり抜けてガラス張りの扉に手をかけます。ガラスの向こうは真っ暗で、何も見えなかったけれど、それでもここにいるよりはましだと思って、力一杯押し開けようとしました。
「開かない……!?」
 あかねちゃんの背中に、嫌な汗が伝いました。押しても引いても、扉は全く動きません。
「お願い、開いてよ……!」
 なんとか逃げ出そうと、動かないドアノブを押したり引いたり、ガラスを叩いたりしているうちに、背後から何かを引きずるような音が聞こえました。その音に操られるように、あかねちゃんは後ろを振り返ります。
「ひ……っ」
 目の前に、あの少女がいました。
「うふふ、わたしの、ごちそう……おにごっこは、もう、おしまい」
彼女の青白い手があかねちゃんの方へ伸びていきます。そして、

「 つ か ま え た 」

「させないよ」
少女の手があかねちゃんに触れた瞬間、その手は少女ごと弾き飛ばされました。
「ニコロ……!?」
「やぁ、大丈夫かい? あかね」
「う、うん……なんで」
「ん〜、正義の味方ごっこ?」
「ごっこって……」
「と、いうのは冗談で……こいつがあまりにも人間を喰らうもんだから、僕らの仕事に支障が出てね。急遽こいつを退治することになったんだ」
「やっぱり、食べた、の?」
「そうなるね。わかってると思うけど……喰われた人間は、戻らない」
「……」
「ま、お喋りはこの辺にしといて……あかね、目瞑ってたほうがいいよ」
「え?」
「まだ、仕留められてないから」
にっこり微笑むニコロの肩ごしにゆらりと立ち上がる少女の姿が見えました。その周りにはたくさんの影が蠢いて、ときどきずるりと分裂し、その数を増やしていきました。
「っ……!」
「ちょっとばかり、刺激が強いからね♪」
言いながら、ニコロは被っていた帽子を手に取り、あかねちゃんの顔を覆うように被せます。
「終わるまで外しちゃダメだよ〜」
「……っ」
 あかねちゃんは帽子を手で押さえ、こくこくと何度も頷きました。それを見たニコロは満足そうに微笑むと、踵を返して少女と対峙します。その手にはいつの間にか、大きな鎌が握られていました。
「まったく、みずきは一体何をしてるんだろうね?」
「じゃま……じゃまじゃまじゃまじゃまじゃまじゃまじゃま、消えろ!」
「フフッ、それ、僕に言ってるの?」
「そうよ、じゃまものは、みんなみんな、消えちゃえばいい……食べちゃえばいい……」
「……何を言ってもムダみたいだね」
 ニコロは小さくため息をつきました。じゃきん、という鋭い音と共に大鎌を両手で構え、さっさと終わらせよう、と自分に言い聞かせるように呟くと、軽く地面を蹴って走り出します。
 一瞬遅れて、少女も動き出します。自分の周りを蠢く影を操ってニコロの行く手を阻もうとしました。が、それらは全て、彼が振るった大鎌に薙ぎ払われて、虚空へ消えていきました。
「消えろ! 消えろ、消えろ!!」
 彼女は感情に任せて、次々と影を繰り出しますが、全てニコロに薙ぎ払われてしまいます。とうとう彼女の影は、目に見えないほど小さくなってしまいました。それは、もう力が残っていないことを示していました。
「う……アァ……」
「さて……一思いに消してあげてもいいんだけど」
彼は、立つこともままならない彼女を見下ろして続けます。
「僕は今、腹が立ってるんだよね♪」
彼は笑みを崩さないまま、彼女の腹に鎌を突き立て、ぽつぽつと何かを唱えます。
「……、…………パウロ・デル・ドローレ」
「ッ!? あ、ぐ、ぅ……ッ、あぁああああああああああああああアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア」
 突き立てられた鎌が抜かれると同時に、咆哮。彼女の顔は苦痛に満ち、先程までの怒りはどこにも見受けられませんでした。のたうち回る彼女の体躯は徐々に色を失っていきます。
「そうやって、痛みと恐怖に蝕まれながら消えるといいよ♪」
 完全に消える直前に彼女が見たのは、笑顔を貼り付けたまま冷たい目でこちらを見下ろすニコロの姿でした。

「終わったよ、あかね」
「……あの子は?」
 ニコロに借りた帽子を外して、あかねちゃんは恐る恐る訊ねました。
「いなくなったよ。もう大丈夫」
「ありがとう、助けてくれて」
「どーいたしまして。まぁ、こっちも予定外とはいえ、仕事だったしね」
ニコロは、くす、と笑って、あかねの手から帽子を取ると、いつものように自分の頭に被せます。
「ん〜、元通りになるにはもう少し時間がかかるし……今のうちに、もともといた場所に戻っておいたら?」
「あっ、そうだね。わたし、教室でみずきちゃんを待ってたんだった!」
「それじゃ、行こうか。僕も帰る前に、みずきに会っておきたいな♪」
「うんっ」
 こっちだよ、と笑顔で手招きするあかねちゃんに返事をして、ニコロは一度振り返ります。そして、じっとこちらを見つめるその人に向けて、囁くように言いました。
「――ひとつ、貸しだよ」
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