01.おとしもの

 その日、あかねちゃんは学校から、少し遠回りをして家に帰りました。
 特に理由はありません。強いて言うなら、その日はとても楽しかったから、でしょうか。友達と別れたくなくて、あかねちゃんの家から少し離れている、友達の家まで一緒に帰ったのです。
 そうしてあかねちゃんは、いつもより少し遅く、自分の家に帰りました。遅いと言っても、あかねちゃんは小学校に入ったばかり。まだ春ですし、授業も早く終わるので、空は綺麗な青のままでした。

 あかねちゃんは玄関の鍵を開けて、いつものように「ただいまー」と声を上げながら、家の中に入りました。いつもなら「おかえり」とお母さんが出迎えてくれるのですが、今日に限って返事はありません。
 しかし、あかねちゃんは驚きませんでした。
 何故なら、それは当たり前のことだったからです。

 あかねちゃんは靴を脱いで、いつもお母さんに言われていた通りにきちんと揃えて、リビングに行きました。
 普段ならまずは自分の部屋に荷物を置きに行くのですが、今日はお父さんが帰ってくるまでリビングにいよう! と、あかねちゃんは決めていたのです。

 リビングのテーブルの上に、一枚のメモがありました。
 あかねちゃんはそれを手に取ります。
 そこには、お母さんからのメッセージが書かれていました。朝も言ったけど今日は出かけるから、夕飯はお父さんと食べて、良い子にしているように……と書かれていました。
 あかねちゃんはメモに対してふむふむ、と頷いて、その下に置かれていた皿を見ました。そこには美味しそうなおやつが乗っています。
 おやつは三時になってから食べるのよ、とメモのお母さんは言いました。
 あかねちゃんは時計を見ます。
 時計の正しい見方は知らないあかねちゃんですが、いくつかの時間は覚えています。朝、短い針が六を指していたら起きる時間。短い針が八を指したら家を出て学校に行く時間で、学校から帰ってきて、短い針が三を指したらおやつの時間。その後、短い針が九を指したら寝る時間なのです。
 時計の針は、二を少し過ぎたところでした。
 残念、とあかねちゃんは肩をすくめます。早くおやつを食べたいのですが、まだおやつの時間ではありません。誰もいないから早く食べてしまおうかな、という考えが頭をよぎりましたが、それを即座に却下するくらいには、あかねちゃんは良い子でした。

 あかねちゃんはリビングの片隅に置いたランドセルから筆箱とノート、それを一枚のプリントを取り出して、静かに宿題を始めました。今日の宿題はカタカナの練習と、引き算のプリントです。
 宿題が終わったのは、ちょうど時計の短い針が三を指した頃でした。あかねちゃんは宿題をランドセルにしまって、おやつの乗った皿を引き寄せます。
 皿に乗った二つのドーナツを食べ終えたところで、あかねちゃんは『音』を聞きました。


 コトリ。


 ん? とあかねちゃんは背後を振り返りますが、当然誰もいません。
 あかねちゃんは少しだけ怖くなりました。お父さんが帰ってくるのは、確か時計の短い針が五を指す頃。それまで一人なのは、急に心細くなりました。
 友達の家に出かけようかな、と一瞬考えますが、行き先をお母さんに言わずに出かけては駄目よ、と言われているのを思い出します。


 コトリ。


 再び鳴る音に、あかねちゃんは凍りつきます。
 今度は振り返ると『ナニカ』が起こる気がして、振り向けません。
 凍りついたまま、動けないまま、あかねちゃんは音が何処から聞こえてくるのか、一生懸命考えます。


 コトリ。


 しかし音は反響して、出所が掴めません。むしろ『それ』がたくさんいる気がして、余計に怖くなりました。





「何をしているんだ?」

 そんな声にビクッとし、あかねちゃんはすぐに声が聞き覚えのあるものだったことに気付きます。ふと見れば既にリビングは暗く、入り口にはお父さんが訝しげな表情を浮かべて立っていました。

 「お父さん!」と駆け寄って抱きつくあかねちゃんをお父さんは受け止め、「今日は甘えん坊だなぁ」と不思議そうな顔で頭を撫でます。
 あかねちゃんはお父さんが帰ってきたことで、安心しきっていました。あの音も聞こえないしもう大丈夫、後はお父さんが作ってくれる夕飯を食べて早く寝て、明日になればきっともうすっかり忘れて友達といつものように学校に行っていつものように勉強をして給食を食べてそうだ明日は友達と遊ぼうお母さんも明日は家にいるからきっと美味しいおやつを作ってくれると……

 そしてそれは実際途中まではその通りで、あかねちゃんはお父さんの作った夕飯を食べてお風呂に入って、笑顔でお父さんに「おやすみ」と言って「おやすみ」と返されて、笑顔で階段を上って自分の部屋に行ったのです。
 そして明日も楽しい一日であることを信じて、ベッドの上で目を瞑りました。










 コトリ。










 不意に聞こえたのは、そんな音でした。
 恐怖に息を呑むあかねちゃんの耳に、続いて話し声が聞こえます。


《やっぱり気付いているよこの子》
《ほら早く眠れば良いのに》
《もう起きられないけどね》
《僕には右腕をくれるんだよね》
《私は左足を貰うのよね》
《じゃあわたしは右足を》
《俺は左腕を》
《ボクは頭を》
《ワタシは脳を》
《オレは心臓を――》


 ゴトリ。




 あかねちゃんはベッドから勢いよく飛び降りました。


(そうだよおとうさんだおとうさんのところへいこうこわいからいっしょにねようっておとうさんがいればだいじょうぶきっとだいじょうぶおとうさんがわるいものなんかこわいものなんかぜんぶぜんぶおいはらってくれるから)


 あかねちゃんは心の中で呪文のように呟きながら、なるべく部屋の中を見ないようにドアに駆け寄り、ドアノブを掴み、捻りました。


「あれ……!?」


 ところがドアノブはガチャガチャと音を立てるばかりで、ドアは開きません。
 あかねちゃんは焦って力いっぱいドアノブを揺らしますが、結果は同じ……

 叫んで助けを求めようとしても、恐怖に強張った自分の体は上手く動かず、口からはかすれた「たすけて……」という呟きが漏れるばかり。










 べちゃっ。










 さっきまでとは明らかに違うその音に……
 あかねちゃんは恐る恐る、まるでロボットのように、ギギギと後ろを振り返りました。

「ひっ……!?」

 あかねちゃんは思わず息を呑みました。
 いえ、これを見て息を呑まない人などいないでしょう。


 まるで天井から投げ捨てられたかのように無造作に転がっている、切り離されたかのような人の右腕と人の左足と人の右足と人の左腕とこちらを睨みつける上半分の無い人の頭と、そして恐らく人のものである脳と……


 赤い液体のついたそれらは、暗い部屋の中で白く浮かび上がって見えました。


 最早声も出ないあかねちゃんの前に、もう一つ……















 べちゃっ。















 そんな音を立てて落ちてきたのは……
 一つの、赤く光る、恐らく人のものである心臓でした。

 そしてあかねちゃんは、こんな声を聞くのです……















《キミにも、落としてもらおうか》



















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